ドーキンス Re: Beyond Demonic Memes

Richard Dawkins Replies to David Sloan Wilson
http://www.skeptic.com/eskeptic/07-07-11.html#reply
より。


ドーキンスによるウィルソン(http://d.hatena.ne.jp/korompa/20071108)に対する返答です。

リチャード・ドーキンスによるデイヴィッド・スローン・ウィルソンに対する返答


Skeptic誌の「ドーキンスが宗教について間違っている理由」と題された記事で、デイヴィッド・スローン・ウィルソンは次のように述べています。

ドーキンスの「神は妄想である」が出版されたとき、彼が進化論的に見た宗教の科学的研究をベースにして宗教批判を行っているのだ、と当然のように思っていました。残念ながらそうではなかったと言わなければなりません。


なぜウィルソンはそんなことを「当然のように思」ったのでしょうか。わたしが宗教の進化に目を向けると想定してしまうのはたぶん筋が通っているのかもしれませんが、ではなぜ進化論的な観点をベースにした批判になるのでしょうか。アッシリア木管楽器やツチブタの穴掘り行動をベースにするのと同じではないでしょうか。『神は妄想である』には宗教の進化上の起源についての章があることはあります。しかしこの章がわたしの本のメインテーマからすれば周辺的だと言うのは控えめな言い方になるでしょう。イギリス版の抜粋版オーディオブック製作の際、どの章が重要でどの章は省いてもいいか検討しなければなりませんでした。最初に省き、録音をまったくしなかったものは、進化上の起源についての章でした。それを録音できなかったのは残念です(アメリカ向けには完全版が収録できたのが救いです)が、この章は本の中心的なテーマからするともっとも重要でないものと思われました。


この本の中心的なテーマは、神が存在するかどうかという問いです。宗教がある種のダーウィニズム的生存価があるのかを問うことも興味深いだろうとは思います。しかしその答えがどうであろうと、神が存在するのかどうかという中心的な問いには何ら差も生み出しません。宗教信仰は生存にとってマイナスの価値をもっているかもしれないし、神は存在するかもしれないし、存在しないかもしれません。『神は妄想である』の別の章ではほかにも重要な主張をしていますが、これに関しても、宗教が進化的に有利であるところで議論に影響はないのです。


集団淘汰に関しては(一般に理解されるものにせよ、ウィルソンが30年間もこだわり続け、個人的に定義しなおした独特の意味でのものにせよ)、宗教に関しては特殊な場合にそういう感じのものがあてはまるかもしれない、ということを『神は妄想である』で仕方がないので1ページ半だけ書いておきました。しかし1ページ半が精一杯のところです。たとえば宗教の起源は「ロウソクの炎に向かうガ」のようなものだという理論のように、話すべきおもしろい問題はほかにもありましたから。ウィルソンにが集団淘汰と呼ぶものについては読者にウィルソンを参照するように書くにとどめました。当時はこれが寛容な態度だと思いましたし、今でも、彼が主張するような本ではなくわたし自身の本を書いたことを後悔すべき理由をなんら持ち合わせてはいないのです。

Beyond Demonic Memes その4

Beyond Demonic Memes(悪魔ミーム説をこえて)その4です。これで終了。

デイヴィッド・スローン・ウィルソン:悪魔ミーム説をこえて--ドーキンスが宗教について間違っている理由(その4)

利己的なミームなどの文化進化理論について

利己的な遺伝子、延長された表現型にくわえて、ドーキンスがうちたてた三つ目の有名な業績は、文化進化を考えるために「ミーム」という用語を生み出したことです。もっとも汎用的には「ミーム」という用語は「文化」という言葉の言い換えで、そこには何ら新しいものは付け加えられていませんが、より厳密に用いると、様々な興味深い可能性が見えてきます。文化は遺伝子のように原子的な小片に分解されること。こうした小片は何らかの形で頭の中で表象されているということ、そして特に、こうした小片はそれ自身が生命体として進化し、古の悪魔と同様ヒトを宿主として広まることがよくあるのだといったことです。


宗教についてはドーキンスは文化進化の実地研究を行っておらず、マイクロフト・ホームズの役割を演じています。マイクロフトはアームチェアに座って弟のシャーロックに地道な仕事をさせる人物です。文化進化研究のシャーロック・ホームズはピーター・リチャーソンとロバート・ボイドの2人です。彼らは、2005年に『Not by genes alone:How Culture Transformed Human Evolution』を出版しています。ドーキンスが『神は妄想である』で行った見落としやすい巧妙なごまかしは、まず集団淘汰を否定した後に、リチャーソンとボイドの研究を敬意をこめて引用したことでした。彼らの文化進化理論はすべて集団淘汰に関するものでしたが、そのことにドーキンスは言及しなかったのです。


遺伝進化だけを考えてみましょう。新しい突然変異が起こったときに、個体群は全体としてたった一つの変異体を含む集団が一つと、変異体がまったくいない集団多数で構成されることになります。このシナリオでは集団淘汰がはたらくようなバリエーションはそうありません。では次に社会的に情報を伝達する能力をもった種を考えてみましょう。新しい文化的突然変異は同一集団内の全員に瞬く間に広まり、個体群全体にいる他の集団とは大きく異なる集団ができることになります。これは文化により集団淘汰側に淘汰レベルのバランスが傾くあり様の一つです。これに加えて他者の行動を監視し、ゴシップで社会的逸脱を伝達し、違反者をあまり手間をかけずに罰するないし追放することができれば、集団淘汰に関してはヒトの進化がまったく新しい状況を象徴していることは明らかになります。


この流れで言うと、ヒトで起こった大きな節目はおそらくわたしたちの系統が進化して間もないころに始まり、心理的アーキテクチャの遺伝進化につながって、互いに知り合い同士の小さな集団では自発的に協力できるようになったのでしょう。偉大な社会理論家のアレクシス・ド・トクヴィルがはるか昔にアメリカの民主主義について語ったように、「村あるいは町は、人間が集団となる場合にはどこであってもそれ自身を構成しているように思えるほど完璧に自然な関係としては唯一のもの」なのです。霊長類でハチの巣やアリのコロニーに対応するものとして、われわれの系統はあまり集団的ではない競争者を排除することができました。新しい行動を獲得して社会的に伝達する能力のおかげでわれわれの祖先は世界中に広がり、何百もの生態ニッチを占めることができるようになりました。その後農業が発明されて集団規模は何百何千倍にも膨れ上がりましたが、これが可能だったのは、これほど大規模の集団が団結するメカニズムを文化的に進化させたからに他なりません。集団を定義し、動機づけ、協調させ、取締まることは規模の大小に関わらず容易なことではありません。近接的メカニズムの複雑なシステム、生物個体の生理メカニズムにも似たシステムが必要となるのです。宗教の要素は、人間集団という生物体の「社会的生理」の一部だったのではないでしょうか? この可能性はドーキンスの分析からは見えず、彼はミームが「ミーム複合体」を形成しうるという抽象的な可能性を簡単に認めているだけです。

地道な作業を


後から考えてみれば、進化学者が宗教の要素よりもグッピーの模様に対してより多くの時間をかけて主要な進化仮説を検討していたことは馬鹿げているように思えます。しかしあらゆる分野の研究者が宗教研究に対して進化的な観点を採用し始めていますから、この状況は改善してきています。


わたし自身の研究からも、実地的な地道な仕事を行うことでアームチェアでの理論化作業を超えたものが見えてくるということがわかります。次の文は宗教が信者の心を和らげるのか、ストレスを引き起こすものなのかについてのドーキンスの文章です。

宗教にはストレスを和らげることで寿命を延ばすプラシーボ効果があるのだろうか。たぶんそうなのだろうが、理論となるにはストレス緩和効果でないものを引き起こす沢山の状況を指摘する懐疑派を説得しなければならない。アメリカのコメディアン、ケイシー・ラドマンはこう言った。「宗教なんてみんな同じ。基本的には罪のことで、休日が違うんだ」。


あるプロジェクトで、わたしは心理学者のMihaly Csikszentmihalyiと共同研究を行いました。彼は一般には極限の心理体験についての著作、『Flow and The Evolving Self』などで有名です。Csikszentmihalyiは経験サンプル法(ESM)の開拓者で、これは1日の中でランダムな時間に被験者に合図して、身体内外の経験、どこにいて、だれといて、なにをしていて、なにを考えたり感じたりしているかを、数値化されたチェックリストに記録してもらうという方法です。ESMは見えない観察者のようなもので、日常生活を送る人々の後を追っていきます。心理調査が入念な実地研究になれば、進化生物学者がヒト以外の生物で習慣的に行っていることと近くなります。そうしたことから、わたしはCsikszentmihalyiとチームを組んで彼の過去の研究を進化的観点から分析することにしました。


こうした研究は非常に巨大な規模で行われ、背景となる情報も膨大でしたから、宗教の信者と非信仰者の心理経験を瞬間瞬間で比較することができるほどのものになりました。さらに、プロテスタントの保守派とリベラル派を比較することもできましたし、彼らが独りのときと仲間と一緒にいるときを比較することもできました。平均すると宗教の信者は非信仰者に比べてより社会的で、自己満足度が高く、時間をより建設的に使い、衝動的な欲望を満たすよりは長期的な計画に関わっていました。瞬間ごとに比較すると、信仰者の報告はより幸福、活発、社交的で、より打ち込んでいて、気分が高揚していました。こうした違いのなかには五分五分のものもありました。宗教の信者と非信仰者の社会性の度合いがそうです。より緻密に比較すると、プロテスタント保守派とリベラル派との間の非常に面白い違いが明らかになります。独りの時に比べて、他人と一緒にいる場合にはリベラル派はより不安を感じ、保守派は気分がよくなったのです。宗教は多様です。生態系にいる生物が多様なように。宗教については、進化学者としてはただ一つの見解を述べるのではなく、生物学的多様性を説明するように宗教的多様性を説明する必要があるのです。


こうした結果からは答えと同じくらい疑問も生まれてきます。われわれはいい悪いという感情を持つように進化してきたのではなく、生き残り繁殖するために進化しました。宗教の信者は非信仰者が不安になって解き明かそうとしている問題には無自覚でいられているのかもしれません。より細かい点としては、信仰を失ったり得たりするなかで、人は「非信仰者」と「信仰者」との間を行き来します。宗教信仰の犠牲になったせいで、非信仰者の中には、心理障害を持っている人がいるのかもしれません。科学的な実地調査をしなければ、こうした問題は解けないでしょうが、一つだけ確かなことがあります。ドーキンスがアームチェアで宗教の罪意識の誘引効果を考えたところで、彼は1塁ベースにも届いていないのです。

宗教の自然史


仮説検証には数量化などの現代科学の装いが必ずしも必要であるというわけではありません。当時ほとんどの博物学者が神の手を研究していると考えて注意深く集めた記述情報をベースとして、ダーウィンは自身の理論すべてを打ち立てたのです。この種の情報は歴史を通して世界中の宗教で豊富に存在しています。そしてこの情報は文化進化の化石記録として捕えられるべきものです。こうした記録は非常に豊富ですから、生物学的な化石記録が恥じ入ってしまうほどです。この情報を使って主要進化仮説を評価することは可能なはずです。これら仮説は結局のところそれぞれが宗教について根本的に異なる概念を表しているのですから。設計の原理から言って、集団全体に利するようデザインされた宗教は、何人かの個人(権力者たちなど)を利するようにデザインされたものとは異なることになりますし、またそれは個人や集団を犠牲にして自身に利するようにデザインされた文化病原体とは異なるものになります。またこれは「デザイン」という用語が不適切な宗教とも別の存在になるでしょう。宗教についてのこのような異なる概念が、注意深く集められた記述記録をベースにしたときに区別できないとしたら、実におかしなことだと思います。


もちろん、自分のお気に入りの理論に合うような例だけを選ぶのではなくて、情報をシステマティックに収集することが必要です。「Darwin's Cathedral」で、わたしは偉大な宗教学者ミルチャ・エリアーデ編集の「Encyclopedia of World Religions(世界宗教百科事典)」全16巻からランダムに引き出した宗教について調査しました。結果はHuman Nature誌に掲載された「Testing Major Evolutionary Hypotheses about Religion with a Random Sample」という論文で説明していて、わたしのウェブサイトからもダウンロードできます。ランダムサンプリングを行ったのは、特異なサンプリングアクシデントがなければ、サンプルについての有効な結論がサンプルを得た百科事典のすべての宗教に対しても当てはめられるという利点があるからです。


わたしが調査したところ、サンプルとされた宗教の多くは実利的な問題、特に社会集団の定義や集団内、集団間の社会交流の調整を重視しています。宗教運動が新たに起こるのは、(宗教的ないし世俗的な)社会組織では組織が現実問題にうまく対処できなくなり、新たな運動の方が対処できる場合です。サンプルとされた宗教の一見非合理的な要素や来世概念といった要素は、進化的に見て重要となる唯一の基準から判断した場合には優れて実利的な意味を持つことがよくあります。宗教信者は宗教によりどのような行動を起こすのか、という基準です。こうした点を描き出すベストの方法は、サンプル中の宗教から1つを選んで描き出すことです。ここではジャイナ教を選びました。この宗教は当初、集団レベルの適応仮説にとってもっとも説明が困難なもののように思われました。


ジャイナ教は東洋宗教の中でももっとも古く、もっとも禁欲的な宗教の1つです。ジャイナ教は今でもおよそ3%のインド人が実践しています。ジャイナ教の苦行者は、息をする空気や飲み水はフィルターにかけ、自分の進む道はほうきではいて、どんなに小さな生物も殺さないようにしなければなりません。彼らには家も財産もなく、ときには「サンサーラ」の誓いを立てて断食により死にいたることもありますが、このサンサーラは共同体全体から賞賛されています。このような宗教が実利的な意味で個人あるいは集団にどのように利益をもたらすといえるのでしょうか。衰えたジャイナ教の禁欲主義を見て、宗教はまさに文化疾患であると結論付けるのはたやすいことですが、学術文献を読み進めれば違ってきます。


実はジャイナ教の苦行者は、この宗教のほんの一部なのであり、一般信者はインドでも有数の富裕商人なのです。彼らの長い歴史の中で、ジャイナ教信者は西洋のユダヤ人、東南アジアの華僑などの商業者社会に似た経済ニッチを占めてきました。いずれの場合でも、長距離交易や宝石貿易のような揮発性の高い経営を行うためには公益相手との強い信頼が欠かせませんが、この信頼は宗教が築くのです。宗教の(部外者にすれば)もっとも難解な要素も、それは余分な副産物などではなく、重要な実利的意味を持っているのです。


例えば、ジャイナの苦行者は物乞いをして食料を得なければなりませんが、ジャイナ教には非常に多くの規律があるため、とても敬虔な一般ジャイナ教家庭からしか食料を得ることができません。また無為の原理から、苦行者を予期していなかった家庭から少しずつしか食料をもらうことを許されていません。苦行者が家に入ると、食料を分けてもらう前に彼らは屋敷を調べ、住人に道徳の純粋さについて鋭い質問を投げかけます。苦行者が家を訪ねることは偉大な名誉の証ですが、食料を受け取ってもらえなければ大きな屈辱にもなります。この苦行者による食料の物乞いというシステムは事実上、共同体にとって重要な警備メカニズムとしてはたらいています。これは数あるうちの1例で、ジャイナ教学者のJames Laidlawが1995年に出した本にまとめられています。この本のタイトルはすべてを象徴しています。『Riches and Renunciation: Religion, Economy, and Society Among the Jains(富と苦行―ジャイナ教の宗教、経済、社会)』


それでは、どうすれば不可能な理想に頼って生きていくことができるのでしょうか? ジャイナ教に対してこの疑問を出すのが有効なのは、ジャイナ教ではこの問題が非常に生き生きと描かれているからです。ジャイナ教の禁欲主義の要件は長期間にわたって継続している歴史的伝統のなかでももっとも徹底的なものだといえる資格を十二分に持っています。多様な家族や共同体が指針としようとしてきたもののなかでは、もっとも非実利的な強制が存在しているのです。ジャイナ教徒たちは、変化、分裂、そしてときには反動的な「改革」の混沌の中で、2000年以上にもわたりこのことを実践してきました。このことは、理想と現実の大きなギャップは必ずしも社会組織の機能不全でも、宗教システムからの逸脱でもないという事実に目を向けさせます。一般ジャイナ教徒が、まったく完全に物質的な意味で、インドでもっともはっきりと成功している社会をつくりあげているという事実からは、苦行者たち自身の場合にも生じるべき、より強くはっきりとした疑問が浮かび上がるだけなのです。


この例は、わたしが自明性の変質と呼んでいる現象をあらわしています。ジャイナ教は少ない情報をもとにすると、がりがりの苦行者や、コンテクストから抜き出すと奇妙に見える信仰など、明らかに機能不全に見えます。しかしより多くの情報が集まれば、同じ宗教が機能しているということが明らかになります。これは「自然史の」情報のようなもので、これによりダーウィンが自身の進化論をあれほど強く論証することができたのですし、集団が機能するジャイナ教の性質についても同じように強く論証することが可能でしょう。ジャイナ教に関してそうであるのですから、同じように歴史を耐えぬいてきた世界中の宗教にも当てはまるでしょう。

合意はできつつあるのだろうか?


この前わたしは進化と宗教についての学会に出席し、この分野の状況がどうなっているのかを知る機会を得ました。宗教についての主要進化仮説がどれくらい重要なのかについては全員が合意しているというわけではありません。わたしの発表では「恥を知れ!(SHAME ON US!)」と大きなブロック体で書かれたスライドを使って、いま手元にある情報をもとにして大まかな合意に達しようとしない仲間たちに注意を促しました。これには落胆させられるかもしれませんが、宗教全体としてみても進化論的観点からはグッピーの模様よりはるかに注目されてこなかったということを考えてください。この分野はそれほどに新しい分野なのです。


学会という短い間ではありましたが意見のまとまりがあったと思っています。Richard Sosisはかつて宗教共同体と非宗教共同体の運動を詳しく比較したことのある人ですが、彼はテロリストの攻撃に対してイスラエル女性たちが詩篇を引用したことについて行った新たな研究を披露しました。William Ironたちは宗教集団での関係を保証するメカニズムとして、ごまかしにくいシグナルという概念を発展させました。Dominic Johnsonの研究からは、集団間の紛争が好ましくなくまた避けるべきものであると同時に、ヒトの遺伝進化や文化進化を通して重要な淘汰圧であり続けたこと、また宗教の要素には戦争に対する適応と解釈できるものもあるということを思い出させてくれました。この研究に対し、わたしは質問時間の際、基本的には賛成するがわたしがランダムサンプリングで得た多くの宗教(モルモン教など)は暴力的な紛争の結果勢力を広げたわけではない、ということを指摘しました。Johnsonは現在わたしがサンプリングした宗教について、戦争という観点からより詳しい調査を行っています。これは共同研究の積み重ねとしてよい例です。Peter Richersonとわたしは集団淘汰についてのチュートリアルを行いました。これは個体主義の時代に進化を理解している参加者にとって特に有用だったと思います。


Lee Kirkpatrickは「宗教は適応ではない」という発表をしました。これは先ほど述べた適応主義的な説明に反しているように思えるかもしれません。しかし彼が述べたかったのは宗教的な文脈に固有の進化を遂げた遺伝的適応は存在しないだろうということです。彼は、より一般的な心理的適応が進化し、それが文化進化により選択され、その結果精巧に機能する宗教システムが出来上がったのだという可能性については理解を示しています。同様に、最小限の反直感性(奇妙すぎない程度に奇妙な信仰が記憶される)や、過度の媒体検出機能(わたしたちは存在していなくても媒体を想定しがちです)、子供が死後の世界の信仰を簡単に持つといった心理学的な発表内容は、非適応的な副産物であるとの解釈も可能かもしれませんが、こうしたものは高度に適応的な宗教の心理的な構成要素にもなりうるのです。進化論の専門用語で言えば、副産物は外適応になりえますし、外適応は適応になりうるのです。


この学会で宗教が病原体のように蔓延し、個体と集団の両者に害をなすという例を説得的に行った人は一人もいませんでした。悪魔ミーム仮説は理論的には可能ですが、現状では説得的な証拠がありません。多くが発展途上ですが、こうした共同作業こそ科学者社会において注意をひくべきものであって、宗教の悪を怒りに任せてののしることではないのです。

現実世界の問題解決には正しい診断が必要


宗教を主として集団レベルの適応として説明したからといって、宗教がすべてにおいて無害だというわけではありません。集団淘汰で可能なのはせいぜい集団を超生命体にすることです。生命体と同じで、超生命体も競争し、互いに捕食しあったり、かかわりあわずに共存したり、互恵的なかかわりを持ったりします。協力的な同盟を結ぶこともあります。この同盟が非常にうまくはたらけば、空間的にさらに大規模な超−超生命体が出現することになります。最近出たすばらしい本「War and Peace and War」で、Peter Turchinは人類史の大きな流れを、文化的な他レベル淘汰のプロセスとして分析し、このプロセスによって、帝国の興亡のように、数多くのより戻しを伴いつつ人間社会は規模を拡大していったのだと論じています。宗教は大きなテーマですが、進化論が説明できる領域はさらに大きいのです。


アメリカの民主主義は文化的な超−超生命体と見ることができます。建国の父たちは宗教がその構成員に対してはうまくはたらくけれどより大きな社会規模では問題になることを理解していました。彼らが政教分離のために尽力したのはそのためですし、ほかにも抑制と均衡をはたらかせてこの超−超生命体の一部が他人を犠牲にして利益を得ることができないようにしました。この流れで言うと、アメリカの政教分離を終焉させようと画策している宗教があるというドーキンスの懸念をわたしも持っています。また、宗教とは関係のない領域、たとえば説明責任のない企業や極端な収入格差などで抑制と均衡がはたらいていないことにも同じくらいの懸念を持っています。


宗教が複雑な集団レベルの適応であると認識はしていますが、ほかの面についてはドーキンスと同様わたしも懸念を持っています。宗教は集団内で服従を強いるなど、冷徹な面もあります。科学者にとってもっとも懸念すべきなのは、宗教が現実世界の事実を不当にねじまげて現実世界に適応的な行動をおしすすめようとすることです。同様に現実をねじまげるものには懸念をもつべきで、これには愛国主義的な歴史観などの非宗教的なイデオロギーがあり、こうしたものをわたしは近著『Evolution for Everyone』で「隠れ宗教」と読んでいます。また、今日の多元社会では宗教は自由に批判の対象となるべきであり、無神論の持つネガティブなイメージは払拭されるべきだということにもドーキンスと同意見です。しかしドーキンスの分析には問題があります。宗教について正しい知識を持たなければ、問題の診断も提案される解決策も正しくならないというものです。サメの鼻の瘤が器官だったときに、それをイボと考えていては理解が進みません。善意からのものとはいえドーキンスの宗教に対するののしりがまったくの誤解であるのはそのためです。


『神は妄想である』の終盤にドーキンスは科学の開放性と宗教の閉鎖性を比べて詩的に語ります。たった一度の講義で、ある科学者が長年持ち続けてきた信念を変え、みんなの前でかつての論争相手に歩み寄り「わたしはずうっと間違っていました!」と語りかける、という心温まる話をドーキンスは紹介します。


この感動もののエピソードは科学の開放性に関して言えばベル曲線の一端をあらわしています。反対側の端にはルイス・アガシのような人がいます。彼はダーウィン時代の指折りの生物学者で、優れた才能と経験がありながら進化論を決して受け入れませんでした。ドーキンスが集団淘汰全般、それに特に宗教に関してベル曲線のどちら側にいるのかは、時間がたてば明らかになるでしょう。しかし今現在は彼はただの怒れる無神論者で、自身の進化学者として、科学の紹介者としての評価を犠牲にして宗教に対する個人的な意見を発散させています。


今こそ、人間性のもっとも重要でもっともなぞめいた側面について理解するために、本気を出してとりかかるべきときなのです。

Beyond Demonic Memes その3

Beyond Demonic Memes(悪魔ミーム説をこえて)その3です。あと1,2エントリでおわりです。
ですます調にすると、ウィルソンの説教くささがよくわかります。

デイヴィッド・スローン・ウィルソン:悪魔ミーム説をこえて--ドーキンスが宗教について間違っている理由(その3)

科学の教条主義


後から考えると、なぜそれほどまで熱心にウィリアムズやドーキンスといった進化学者が集団淘汰を否定し、完全に自己利益に基づいた進化観を発展させたのかを理解するのは困難です。ウィリアムズは『適応と自然淘汰』を次の文で締めくくっています。「私はこれが正しいあり方なのだと信じている」。1982年の『延長された表現型』でドーキンスはこの時代を次のように回想しています。

ダーウィン以来これまで、彼の個体中心的な立場は驚くべきことに否定され、無意識の集団淘汰主義にだらしなくそれていってしまった…(中略)…われわれは我慢強く反撃したが、イエズス会並みに洗練され献身的なネオ集団淘汰主義者の後衛からの狙い撃ちに悩まされてきた。しかしついにダーウィンの立場、わたしが「利己的な個体」という項目によって特徴付けている立場を取り戻すことができたのだ。


この文章には、神性(=ダーウィン)を私物化するといった、原理主義者のレトリックの特徴すべてがうかがえます。ダーウィンが最初の集団淘汰主義者だったことはどうでもいいのです。さらに言うと、『利己的な遺伝子』とは違って、ドーキンスは『延長された表現型』を一般大衆ではなく科学者たちに向けて書いたのです。


抑圧的な社会状況下にあったため認識することは難しかったのですが、実際には集団淘汰に対する反論は『適応と自然淘汰』が出版された直後からほころびはじめています。そもそも遺伝子を「自己複製子」や「淘汰の基本単位」と呼ぶことは、集団淘汰矛盾しないのです。問題はつねに、遺伝子が集団全体に利する形で、集団内では淘汰上不利になるにも関わらず進化することはありうるのか、ということだったのです。これがありうるのなら、集団間の淘汰で好まれる遺伝子は集団内の淘汰で好まれる遺伝子に取って代わることになります。集団遺伝学の用語で言えば、これは平均効果が最大である、ということです。進化するという理由だけで遺伝子を利己的であると分類しなおしても何も生み出しません。進化を「遺伝子から見る」という行為はある点からは示唆に富んでいますが、集団淘汰に対する主張としては、進化研究の歴史上でもっとも意味のないものだったと言えます。リンゴとオレンジを比較するような例の最たるものなのです。


延長された表現型という概念についても同じことが言えます。これは遺伝子が生物個体の体を延長した効果を持つというものです。延長された表現型の例には鳥類の巣やビーバーのダムなどがあります。しかしこの2つの例には違いがあります。鳥の巣はそれを造った個体にしか利益をもたらしませんが、ビーバーのダムは池の中のすべてのビーバーに、ダム造りに貢献しなかった個体に対しても利益をもたらすのです。集団内の淘汰の問題はダムの例にも存在していて、延長された表現型の概念があってもこの問題を解くことはできません。リンゴとオレンジの例が増えるだけなのです。

集団淘汰の復活


集団淘汰が1960年代に否定されて以来の40年間で多くの出来事がありました。ナイーブな集団主義は現在でも間違いで避けるべきものですが、集団間の淘汰が頭から否定されることはなくなりました。集団淘汰の主張は他の主要な進化仮説と同様ケースバイケースで評価されなければなりません。集団淘汰の実証はトップレベルの科学雑誌に定期的に掲載されています。


一例を挙げると、2006年7月6日付けのNature掲載の論文で、Benjamin Kerrを筆頭とする微生物学者たちは大腸菌とその捕食ウイルス(ファージ)を96ウェル(穴)のプレートで培養したました。このプレートは自動化学分析でよく使われるものです。それぞれのウェルには捕食者と獲物の集団が入れられました。ウェル内では自然淘汰によりもっとも貪欲なウイルス株が好まれましたが、こうした株は獲物となる大腸菌を駆逐してしまい、その結果自身も滅亡する傾向にありました。より控えめなウイルス株はそれぞれのウェル内にいる貪欲な株に取って代わられる危険はありましたが、集団としては長く生き残り、他のウェルに進出する可能性も高かったのです。ウェル間の移住はロボット制御のピペットにより行われました。生物学的に起こりうる移住率があれば、集団内では淘汰上不利であっても、控えめなウイルス株が個体群全体で生き残ることがは可能だったわけです。


もうひとつの例は2006年12月8日付けのScience誌に掲載されました。ここでは経済学者のSamuel Bowlesにより、集団間の淘汰がわれわれヒトの利他性の遺伝進化をうながすほどに強力であるという試算がなされています。これはまさしくダーウィンが予見したことです。他にもたくさんの例があり、E.O.ウィルソンとわたしは近々公表されるレビュー論文で要約しています。こうした例をドーキンスは完全に無視し、集団内では利他性が淘汰上不利であるため集団間の淘汰には対処不能な問題が生じるというお題目を唱え続けています。

集団としての個体


集団淘汰は重要な進化の推進力になりうるだけでなく、進化の推進力として支配的なものにさえなりえます。進化生物学の発展におけるもっとも重要なものの1つに、大きな節目(major transition)という概念があります。これによると、進化は小さな突然変異により起こるだけでなく、社会集団や複数の種からなるコミュニティからも起こり、これが統合されてそれ自体が高次のレベルの生物体にもなるのです。細胞生物学者のリン・マーギュリスはこの概念を1970年代に提唱し、真核細胞はバクテリア細胞の共生コミュニティから進化したと説明しました。この概念はその後他の大きな節目の説明にも広げられ、生命の起源は協力的に分子が反応するコミュニティの結果として説明されたり、多細胞生命体や社会昆虫のコロニーにも適用されたりしました。


いずれの例でも、淘汰のレベル間のバランスは固定的なものではなく、それ自体が進化しえます。集団内の淘汰が押さえ込まれたときに大きな節目が起こります。利己的な要素が自分の集団内の他の要素を犠牲にして進化することが難しくなるのです。集団間の淘汰は進化の推進力として支配的になり、集団を高次の生命体へと変換していきます。皮肉にも個体主義の時代では集団を生命体と考えることはタブーでした。しかし今では生命体はその前の時代には文字通り集団だったということがわかっています。


ドーキンスは大きな節目という概念を完全に受け入れていますが、集団淘汰に対する自分の考えに修正を行う必要はないと白を切っています。もっとも重要なのは、宗教の研究にもっとも関連の深い問題を彼が取り上げようとしないことです。人間の遺伝的・文化的進化は大きな節目のもっとも新しい例であり、人間集団が人体やハチの巣と同等のものになるという可能性があるのではないでしょうか?

Beyond Demonic Memes その2

Beyond Demonic Memes(「悪魔ミーム説をこえて」)つづきです。
これで1/3くらい。

デイヴィッド・スローン・ウィルソン:悪魔ミーム説をこえて--ドーキンスが宗教について間違っている理由(その2)

リチャード・ドーキンスとスティーブン・ジェイ・グールド:奇妙な同志


今はなきハーヴァード大の生物学者、スティーブン・ジェイ・グールドが、「存在しない適応を見ている」という批判をしたのは有名です。彼は副産物のことを、スパンドレルというメタファーで表現しました。スパンドレルとは、アーチが互いに隣接する際に必ずできてしまう三角形状のスペースのことです。アーチに機能はありますが、スパンドレルにはありません。装飾用のスペースといった二次的な機能を持つことはあるかもしれませんが。グールドは、生物学者たちが適応形質について、正しい証明もなく「そうなって当然の物語」をこじつけていて、進化の副産物や非適応的な産物という可能性を見ていない、と批判しました。


グールドの言うことはもっともですが、実際に存在している適応を見ることができないという、正反対の問題には目を向けませんでした。あるサメの鼻の瘤を説明したいと思っている生物学者になったと想像してみてください。もしかしたらこれはサメの鼻が発達する過程で発生した副産物かもしれません。グールドは人間のあごについて同じように推定しています。あるいはそれは皮膚が硬化したもので、サメが砂を掘るときに形成されたものなのかもしれません。もしそうだとするとこれは適応ということになりますが、それほど複雑なものではないでしょう。あるいはこれはイボで、ウイルスが原因なのかもしれません。とすればこれはウイルスにとっての適応で、サメにとっての適応ではありません。またこれは、砂の中に隠れている獲物の微弱な電気信号を検知するための器官なのかもしれません。この場合は複雑な適応であるということになるでしょう。


生物学者にとって、複雑な適応の発見は何にもまして興奮するものです。それまで説明できなかった無数の細部が、目的を持ったシステムとしてつながりあい、解釈可能になるのです。非適応形質も複雑になるかもしれませんが、複雑な適応は、機能を持っていますから、最初から最後までの分析が可能なのです。複雑な適応が存在しているのに認識できないというのは、存在していない適応を見ているのと同じくらい大きな間違いです。精力的で地道な研究を続けることによってのみ、この問題を片付けることができるのです。グッピーの模様の進化論的研究には、何百人年もの労力が費やされたのです。


ドーキンスは適応主義の立場からグールドと論争を行いました。ドーキンスはここまでわたしが話してきたことにはすべて同意すると思います。しかし宗教については、彼は基本的には非適応主義の立場に立っています。彼によると、人が宗教にとりつかれてしまうのは、ガが炎にひきつけられてしまうのと同じことなのです。もしかしたら宗教的衝動はわれわれ祖先の時代の小さな社会集団に適応したのかもしれませんが、現代の巨大社会にではないのです。現代の宗教信仰が適応的だというのなら、それはヒトを宿主とした文化的寄生物としての信仰それ自身にとってのみ適応的なのです。人にとりつくと考えられていた古えの悪魔のように。これがドーキンスが神が妄想であるとする理由です。ドーキンスにとってもっともあり得ない可能性は集団レベルの適応仮説です。宗教とは、人間集団の利益のために、その集団を定義し、動機づけ、協調させ、取締まるものではない、と彼は断固とした主張をしています。

集団の利益のために?


宗教が集団レベルで有利だという考えに対するドーキンスの疑いを理解するためには、進化論での「集団のために」という考え方の歴史をひも解いていかねばなりません。集団が適応的になるのはそのメンバーが互いに世話をしあう場合のみなのですが、この世話というのは同一集団にいる自己中心的な個体のただ乗りに弱い場合が多くあります。幸いにも相互に助け合うことができる個体集団は助け合わない集団を打ち負かすことができます。


この論理から、「集団のための」形質には、集団間の淘汰プロセスが進化する必要があり、集団内の淘汰により崩壊する傾向があります。ダーウィンは人間の徳性や他の動物に見られる自己犠牲形質の進化について、初めてそのように考えました。残念ながら、20世紀前半の生物学者の多くはこの彼の考えを共有せず、適応は生物学的階層のすべてのレベルで進化する、と無批判に想定しました。個体のため、集団のため、種のため、生態系のために、それぞれのレベルで対応する自然淘汰のプロセスを必要としなくとも適応形質が進化すると考えたのです。集団淘汰の必要性が認識されたとき、集団間の淘汰は集団内の淘汰に打ちかつことは簡単だ、と想定されることが多くありました。これは「ナイーブな集団主義の時代」とでも呼べるもので、1960〜1970年代に終焉します。これには2冊の本、1966年のジョージ・C・ウィリアムズの『適応と自然淘汰』と1976年のリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』が大きな貢献を果たしています。


『適応と自然淘汰』で、ウィリアムズは多レベル淘汰の論理を肯定しましたたが、経験に基づいた但し書きが加えられていました。集団間の淘汰は理論上は可能であるが、現実世界においてはつねに集団内の淘汰に負けてしまう、というものです。ほぼすべての適応は個体レベルで進化したのであり、見かけ上利他的に見える行動であっても、それは自己利益の観点から説明されるに違いないというのです。この経験に基づいた主張により、「ナイーブな集団主義の時代」は終わりを告げ、「個体主義の時代」とでも言うべき時代が始まりました。以降の20世紀を通してずっとこの時代が続き、ある意味では未だに継続しています。


ウィリアムズにより打ち立てられたもう一つのテーマは、遺伝子が淘汰の基本単位であるという概念です。有性生殖を行う種では、個体は遺伝子がユニークに集合したもので、二つとして同じものがありません。ですから個体は複数の世代にわたって自然淘汰がはたらく永続性を持ち合わせません。ウィリアムズによれば、遺伝子が自然淘汰の単位であるのは、集団はおろか個体には欠けている永続性を遺伝子が持っているからなのです。


多くの点で、また彼自身の説明から、ウィリアムズはダーウィンに始まり、シーウォル・ライト、ロナルド・フィッシャー、J.B.S.ホールデンら理論生物学者たちにより洗練された考えをより一般の読者に向けて解き明かしていました。遺伝子が淘汰の基本単位であるという概念は、集団遺伝学の平均効果という概念と同じものです。これは、遺伝子が経験した環境や個体の遺伝型すべてを加味したときの対立遺伝子の適応度を平均したものです。10年後、ドーキンスはさらに幅広い読者に対して解説者の役目を果たしました。平均効果は利己的な遺伝子となり、個体は遺伝子に支配される無能なロボットになったのです。集団淘汰は少数派の考えとなり、考慮すべきでない例としてのみ教えられるものになりました。ある著名な進化学者は、1980年代に生徒にこうアドバイスしています。「生物学で使ってはいけない考え方には3つある。ラマルキズム、フロギストン説、そして集団淘汰だ」。


(つづく)

Beyond Demonic Memes

デイヴィッド・スローン・ウィルソンによるドーキンス批判、「Beyond Demonic Memes:ドーキンスが宗教について間違っている理由」を小出しで公開していきます。なんとはなしに、ですます調で。原文は以下から。

http://www.skeptic.com/eskeptic/07-07-04.html

ちなみにこれに対するドーキンスの短いコメントもあります。ポイントずれてるよという感じですか。

http://richarddawkins.net/article,1403,n,n

デイヴィッド・スローン・ウィルソン:Beyond Demonic Memes--ドーキンスが宗教について間違っている理由

リチャード・ドーキンスとわたしには共通点が多くあります。どちらも教育を受けた生物学者で、進化論についていろいろと書いています。それ自体が進化プロセスであるという観点から、文化について関心を持っています。わたしたちは個人的には無神論者で、宗教についての本を書いたことがあります。「Darwin's Cathedral」でわたしは進化宗教学という比較的新しい領域への貢献を試みています。ドーキンスの「神は妄想である」が出版されたとき、彼が進化論的に見た宗教の科学的研究をベースにして宗教批判を行っているのだ、と当然のように思っていました。残念ながらそうではなかったと言わなければなりません。彼はこのテーマについて独自の研究を何も行っておらず、また彼の仲間たちの研究を正しく反映してもいないのです。ここで「神は妄想である」を批判するのはそのためですし、またより大きな問題がかかっているのです。

同意するところ、同意できないところ


『神は妄想である』でドーキンスは宗教の不寛容性、盲目的信仰、残虐性、過激思想、悪用、偏見をはっきりと嫌悪しています。こうした問題は宗教のせいであるとして、宗教がなければ世界はよりよい場所になるだろう、と考えています。中東、それにここアメリカでの近年の事態を見れば、彼がなぜこうした結論を引き出したのか納得できます。でも問題があります。宗教は進化論にどういう風にかかわっているのでしょうか?

ドーキンスもわたしも、宗教を学ぶ上で進化論が強力なフレームワークを提示してくれるということには同意していますし、いくつかの細部についても同意があります。だから同意できないところを正確に指摘することは大事だと思います。進化学者は形質について研究するとき、いくつもの仮説を運用します。グッピーの模様のようなありふれたものに対してさえ。これは自然淘汰によって進化した適応形質なのだろうか。もしそうであるなら、他の集団と比較してその形質をもった集団全体に利することにより進化したのか、それとも集団内の他の個体と比較してこの形質をもった個体に利するものなのか。文化進化では3つ目の可能性があります。文化形質は個人から個人へと受け渡されますから、おもしろいことに病原体に似ていると言えます。おそらくこうした文化形質は自分自身の受け渡し能力を高めるように進化するのであって、そこには人間個人や集団に利する必要はないのです。

形質が適応によるのではなくても個体群に留まることはありえますが、これにはいくつもの理由があります。もしかしたらこの形質は過去には適応的だったけれど現在はそうではなくなっているのかもしれません。たとえば食習慣がそうですね。祖先が生きた食糧不足の環境では意味がありましたが、街角にマクドナルドが立ち並ぶような環境では意味をなしません。そうではなくてこの形質は他の適応の副産物だったのかもしれません。たとえばガは星の光を頼りにして飛ぶ方向を決めます(適応)が、この形質のせいで街灯や炎のような地上の光源に向かってらせん状に飛び込んでしまいます(犠牲の大きな副産物)。これについてはドーキンスが『神は妄想である』で詳しく説明しています。あるいはそうではなくて、この形質は淘汰上は中立で、個体群内に留まっているのは遺伝的ないし文化的浮動のせいかもしれません。

ドーキンスもわたしもこうした主要仮説が宗教研究を整理する上ですばらしいフレームワークを提示してくれるということには同意しています。このことはそれ自体が重要な成果です。それにこうした仮説が相互排他的ではないということにも同意しています。進化はごちゃごちゃとした複雑なプロセスです。法律やソーセージをつくりだすのと同じです。だからこれら主要仮説すべてがある程度関わりあっているのかもしれないのです。しかし研究を進めるためには、特定の形質の進化にとってどの仮説がもっとも重要なのかを決定しなければなりません。グッピーの模様は応用の利かないものに見えるかもしれませんが、これは進化分析のケーススタディとして生物学者には良く知られています。この模様は2つの強力な淘汰圧に対する適応である、と一義的には説明できます。捕食者がもっとも派手なオスを個体群から取り除く一方で、メスはもっとも派手なオスを配偶者として選ぶ、というものです。この2つの淘汰圧の間での相互作用から、グッピーの模様について詳しいことがすばらしいほどに説明されます。また、捕食者が魚類ではなく甲殻類の場合には、こうした模様が基本的に赤色をしていることさえも説明できるるのです(魚類の視覚系は赤色に対して反応できますが、甲殻類の視覚系にはできないためです)。グッピーの模様が淘汰上中立であったり、他の形質の副産物である可能性もあったのですが、事実からはそのような結論は導き出されなかったのです。


(つづく)

みんなの進化学

山形浩生が書評していた。

http://cruel.org/onebook/evolution.html

ところでこの著者によるドーキンスに対する結構長い批判を夏ごろに適当に訳してほったらかしてあるので(未完ですが)そのうち公開しようかどうしようか。

月下美人の開花

庭の月下美人が咲きそうだったので、撮影してみました。

約二時間程度、約15秒に1回の割合で撮影したところで電池が切れたので終了して遊びに行ってしまったので後半が飛んでます。400枚程度。

Picasaで簡単に動画が作れることを発見。でもWindows Movie Makerはいまいち使い勝手が良くない。

http://video.google.com/videoplay?docid=-4666742619510795072