フライング・スパゲッティ・モンスター

前置き

えーとフライング・スパゲッティ・モンスターという
http://www.salon.com/books/int/2006/10/13/dawkins/index_np.html
ドーキンスのインタビューを訳しました。まあいろいろ考えた結果公開することにします。


ちなみに
http://sociologbook.net/sb.cgi?eid=42
もぼくです。ヘタレで匿名にしてましたというか、まあこれでも匿名とあんまり変わらない気はするけど。


やってるうちに別の場所で訳されていることを発見しました。誤訳のチェックや言い回しを参考にさせてもらいました。
http://return0.dyndns.org/d/2006/10/17


また、序文とかはどうでもいいので訳していません。

10月31日

id:Gomadintime:20061030より訳の問題を指摘されたので参考にさせてもらい直しておきました。ありがとうございます。ほとんどは指摘の通りに直したんですが、Consciousness Raising はもう少し素通りできない言葉のほうがいいかなと思ったのでそのままにしてあります。

フライング・スパゲッティ・モンスター

少年時代には教会に行っていたとどこかで書いていますが、無神論者になったのはいつですか?


9歳ごろから疑いだしました。様々な宗教があって、全てが正しいとは言えないということに気づいたんです。自分が育ってきた宗教というのもたまたまの偶然だったんだと。12歳ごろにはまた戻っていきましたが、最終的に15か16の頃には宗教を捨てることになりました。

神や宗教というのは論理的に筋が通らなかったのでしょうか。それで宗教に反対するようになったんですか。


ええ、純粋に論理的なものです。どうして神様がいるこの世界に悪がこんなにはびこっているのか、みたいな道徳的な疑問に悩んだことはあんまりありませんでした。私にとって神の問題は常に論理にかかわるものでした。存在についての説明を知りたかったのです。特に生き物に関しては興味を持っていました。それでダーウィニズムによる説明を発見したときに、これはしびれるくらいにエレガントでパワフルなものでしたから、生命を説明するために超自然的な力なんていらないじゃないか、と思うようになったのです。

なぜ不可知論ではなく無神論なのですか?


厳密に言えば不可知論をとる以外にはありえません。しかし神のことは、妖精やフライング・スパゲッティ・モンスターと同じ意味でその存在を知りえないと思っています。神の非在を証明することは実際は不可能です。ですから、肯定的な無神論者というのは厳密にはありえませんが、しかし神について、トールやアポロと同じような意味で無神論的立場をとるということはできます。現代では誰もトールやアポロについては無神論なわけで、そこにもう一人の神を付け加える人もいる、ということですね。

神を問題にするときに、聖書の神、つまり旧約聖書におけるヤハウェについて話をしているんでしょうか。


そうですね。私の本を読んでくれるような人々の方を向いていますから、たまたまそうなっています。誰もトールやアポロは信じませんから、そうしたものについて書く必要はない。ですから実質上、アブラハムの神を信じる人へ向けられています。

この本では、無神論者が様々な場面で非難されており特にアメリカでひどい、と書いています。「今日のアメリカでの無神論者の地位は50年前の同性愛者の地位に等しい」と。これは地域によって異なるんではないですか。アメリカの都市や学校には福音主義キリスト教徒のほうが無神論者よりもつらいところも多くありますが。


そのことは認めるべきでしたね。おっしゃるように、イギリスやヨーロッパのほとんどの国では無神論者にも多くの敬意が払われます。アメリカでもそうです。そのことは認めるべきでしたし、アメリカの友人には謝らないといけませんね。アメリカの半数ほどは理知的で、無神論的です。数字と実状に違いはあるかもしれませんが。

二つの言葉、理知と無神論というのを結びつけたのはなかなか面白いと思いました。理知的になれば、無神論者になる可能性が高まると言っているのですか。


そうですね。この質問に関してはかなりの証拠があります。

エリート主義っぽい考え方ですね。証拠はあるんですか。


確かにエリート主義ですが、なにか問題でも? 人を排除するのではなく、エリートになってもらおうと努力しているのです。目標は高く持つべきだと、非常に強く思います。逆ではありません。それから証拠を挙げろとのことですが、たくさんの研究が行われてきました。私の知っているもので言うと、Mensa Magazine で発表されたメタ分析があります。そこでは教育レベルないし IQ と宗教との関係についての研究事例43件が調査されました。そのうち4件を除く全て、39件で IQ もしくは教育レベルと無神論の相関関係が確認されました。教育があればあるほど、あるいはより理知的であるほど、無神論者になりやすいということですね。

この本であなたは目的をかなり率直にしていて、「信心深い人々がこの本を開けば、読み終わるまでには無神論者になる」と期待されています。本当にそうなると思っていますか。


いえ、そういうのはおこがましいですね。これは野望です。可能性が少しでもあるんだったら、私の本を読んでそういう結果になってほしい、と期待したんです。そういう風になるだろうと考えるには、いつもリアリスティックすぎるので。

宗教のどこがそんなにいけないんですか。


宗教は誤りを信じこませようとします。全く説明になってないような不十分な説明で満足させようとします。これは特に問題ですね。本当の説明、つまり科学的な説明は非常に美しくエレガントなんですから。非常に残念ながら、多くの人は世界や生命についての科学的説明が美しいものだということに気づいたことがありません。しかしもしそれとは逆に、理解することを積極的に否定するように組織的に奨励されるとしたら、それはもっと残念なことでしょう。多くの宗教ではそんなことをしているんですよ。しかしこれは私が宗教を敵対視する理由の最初の一つにすぎません。

あなたは宗教が不誠実だと思っているだけではないでしょう? 邪悪なものがあると考えていますね?


そうですね。信仰には非常に邪悪なものがあると思っています。信仰、とここで言うのは、証拠なく信じる、という行為のことであり、また誇りをいもってそう行う態度のことです。そしてこれが危険なのは、その名の下では全てが正当化されてしまうからです。聖書や神父から、冒涜者や背教者には死を、と教えられたとすると、かつて信じていた信仰を捨てた人は全て殺されなければなりません。これは明らかに邪悪です。信者はそれを正当化する必要がありません。それこそが信仰なのですから。「そうするためのちゃんとした理由はこうだ」とは言わなくてよいのです。「信仰がささやく」と言いさえすればいい。こうしたことを我々は許容し、敬意を持つことが期待されています。自分が実際信心深いか否かにかかわらず、信仰には敬意を払い、疑問をはさむべきではないと言われて育ってきました。このことはしかし非常に邪悪な結末を生み出し得ます。歴史上で信仰が生み出してきたものには、十字軍、宗教裁判や、現在でも自爆テロがあり、ニューヨークでは飛行機で高層ビルに突っ込む人がいます。こうしたものは全て信仰の名の下に行われてきました。

でも殺人もいとわない宗教過激派と穏健で平和な信仰者とを区別しなくていいんですか。


もちろん区別しなければなりません。両者は全く異なります。しかしおっしゃるような穏健で分別のある信仰者がそうした過激派の温床をつくっています。穏健派は子供を教育したり、時には思想教育までも行って信仰は全てに勝ると信じこませますし、また社会に影響を与えて信仰に敬意を持たせます。こうした穏健な人々の信仰はそれ自体では害のないものでしょう。しかし信仰を尊重すべきだという思想はイスラム神学校の教室にいる子供たちには吹き込まれます。子供たちはそうしたことを過激派からではなく、まともで穏健な教師やムッラから教えられます。しかし少数の子供は成長してから先生に教えられたことを思い出します。コーランを読んだことを思い出し、それを文字通りに受け取ってしまうの。本当に強く信じこんでしまうのです。一方穏健な人々はそれほど本気で信じてはいないのですが、子供に信仰は美徳である、と教え込んできました。そのことで一部の人間が聖なる書、旧約聖書新約聖書コーラン、何でもいいですが、そこに書かれてあることを信じるようになる。それが字義通り真実なんだと信じてしまえば、どんな邪悪なことでもほとんど歯止めなく行うことができるようになってしまいます。

しかしほとんどの穏健派宗教人は過激派の終末論的な考えを恐れています。


もちろん恐れるでしょう。非常にまともでいいな人々ですから。しかし彼らに恐れる権利はないと思いますね。彼らこそが、子供に迷いなく信仰することを教えることでそうした思想を世界にもたらした、とある意味では言えるわけですから。

両親が特定の宗教に属しているからといって子供にその宗教を教えるべきではない、と?


親は子供に対して、事実に基づいて正しいと考えられているものについてはなんでも教えるべきだ、と言いたいですね。あれがブルーバードだ、とか、これがハクトウワシなんだ、といったものです。子供に宗教信仰といったものが存在するということは教えてもいいかもしれません。しかし、神が存在し、神が世界を6日間で創造したということを事実として子供に教えるというのは、これは児童虐待です。

しかし、しつけというのは実質的に言って子供に価値観を教えるということではないですか? ベジタリアンの家族は子供に動物を殺し肉を食べるということが悪いことだと教えますよね。それと同じように神を信じる親が子供に宗教教育の価値を教える、というのはやってはいけないのですか?


子供は質問しますよね。それで、子供が、「なんでそうしちゃいけないの?」と聞いたときに、「誰かがキミと同じことをしたらどう思う?」と言えば全く完璧な答えになります。「相手の身になって考えろ」これが子供に物事を教えるときの鉄則です。みんなが誰かのものを盗むようになったら世界は崩壊します。だから盗みは悪いことだ、というわけですね。では子供が「どうして肉を食べちゃいけないの」と聞いたら?「お母さんもお父さんもこうこうこういう理由で肉を食べるのはいけないと信じている。ぼくらはベジタリアンだ。キミは大きくなったらベジタリアンになるかどうか決めたらいい。でも今はこの家に住んでいるから、肉はご飯にはでてこないんだよ」と言えるとは思います。子供に選択の自由を与えず、何か全く違うことを信じている人もいるということを教えない。その結果子供が自分で選択できなくなる、というのは児童虐待だと思います。

教会に行くわけでもないのに、自分自身を信心深いと考える人は非常に多いですし、あるいはスピリチュアルという言葉を好んで使う人もいます。そうした人々は組織的な宗派に属しているわけではありません。人格としての神を信じてはいません。神という言葉を避ける人もいます。意味があまりにも大きいからです。しかしそれでも現実を超越するものは存在するんだという強い感覚を持っています。それで生活する中で何かスピリチュアルなことを修練として行っている人もいます。そうした人々は信心深いと言えるのでしょうか。


これはまた別の問題ですね。たぶん信心深いと言えると思います。これは何を信仰しているのか、によります。「The God Delusion」の最初の章ではアインシュタインについて書いてあります。彼は「神」という言葉をよく使いました。アインシュタインは人格としての神を信じてはいませんでした。そういう意味では彼は明らかに無神論者です。彼は我々が未だ理解できていないこと、宇宙の基礎をなしている大きな謎に対するメタファーとして「神」という言葉をつかったのです。

でもほとんどの人はアインシュタインは自然神論者だと思ってますよ。神が自然則、物理則を創造し、宇宙をスタートさせたと彼は示唆しています。


そういうポジションをとってきた人もいます。アインシュタインの本を読んでの私の判断は、彼は自然神論者ではなかっただろうというものです。確かに彼は、私と同じく何か大きな謎というものを信じていました。そんな人を「信心深い」という言葉で表すのは可能でしょう。そういう見方をすれば、私やカール・セーガンだって信心深いだといえてしまいます。でも信心深いかどうかというのは、超自然的な人格をもった存在を信じるかどうかだと私は思うんです。自然神論者も、一神教信者同様そういうものを信じていると思います。そういう基準からすれば、アインシュタインは自然神を信じていなかったと思います。もちろん一神教信者でもなかった。アインシュタインのように「神」という言葉を用いるのはミスリーディングだと思います。アインシュタインがそうしてしまったのは残念ですね。トラブルを招いてしまいましたし、誤解もされてしまいました。

あなたの定義では宗教信仰には人格を持った存在というものが必須のようです。それに反対する人は多いと私は思います。そうした人は自分が非常に信心深いと思うかもしれませんが、人格神という概念は、宗教の定義でいえば時代遅れだと考えるんではないでしょうか。


そうおっしゃるのであれば宗教というもので何を指しているのか教えてほしいですね。神であれ超越的な存在であれ、なんでもいいですが、それが複雑で非現実的で、人格としての属性、つまり知性や創造性といったものを持っているかどうか、ということを私は判断の基準にしています。もし宇宙がインテリジェント・デザイナーにより創造されたと信じるのであれば、それに人格があるかどうかにかかわらず、このことは神についてのいい定義だと思います。そういうものを私は信じていないのです。そしてそういうものをアインシュタインも信じていなかったのです。

福音主義者を別にすれば、ほとんどの人は科学と宗教は全く両立可能だと想定していると思います。スティーブン・ジェイ・グールドが両者は「NOMA(重ならない教導権)」*1だと言ったのは有名ですね。科学は観察可能な宇宙に関する事実や理論という経験世界をカバーし、宗教は究極の意味や道徳的価値を扱う、と彼は言っています。しかしあなたはこうした主張には非常に批判的ですね。

そうですね。私は宗教信仰というものは科学的な信念だと思っています。信仰は宇宙についての主張を生み出します。そうした主張は必然的に科学的主張です。宇宙が至高の存在によって創造されその住処となった、と信じるのであれば、それは創造されずまた創造的知性を擁しない宇宙とは全く異なったものになるでしょう。これは科学的に検証しうる差異です。奇跡、を信じるのであれば、それは明らかに科学的な主張になります。証拠が主張される奇跡全てに対して、その評価のために科学的手法が用いられることになります。

いま仮説的に、考古科学者に幸運が続いて証拠、たぶん復元された DNA になると思いますが、それを得ることができたとします。この証拠は、イエスには本当に人間としての父はいなかった、つまり処女から生まれた、ということを示しているとします。そういうものがあったとして、グールドの NOMA に基づいて、「いや、DNAの証拠というのは全く関係がない。そっちから言われる筋合いはない。科学と宗教は互いに関係がない。どちらも平和に共存するのだ」と言うような神学者がいると思いますか? そんなことはもちろん言わないでしょう。そんな証拠がもし発見されるのであれば、この DNA は証拠として高らかに喧伝されるでしょう。

科学は「HOW」で始まる問いを扱い、宗教は「WHY」で始まる問いを扱うんだというおなじみの文句についてはどうですか。


これはほんとに馬鹿げてます。そもそも「WHY」で始まる問いって何ですか。ダーウィニズム世界でも意味を持った「WHY」で始まる問いは存在します。例えば、なぜ鳥には翼があるのか? 飛ぶためです。これは翼を持った鳥が持たないものよりもうまく生き残れたという進化プロセスをダーウィニズム的に言い換えたものです。でも彼らはそういうふうに「WHY」を使いません。意志や目的を持っているという意味で使うのです。ですから宗教が「WHY」を扱うんだと言うとき、そこでは我々が今議論している問題全体の要点がずらされています。宗教、超自然的な宗教を信じない人はそういう意味での「WHY」なんてあり得ない、と言うでしょう。ところで、「WHY」で始まる文を作ることができ、文法的に正しいからといって、必ずしも答えがあるとは限りません。なぜユニコーンはからっぽなのか? と問うことはできます。これは何か意味しているように見えますが、答えに値するものではないでしょう。

でも大きな「WHY」の問題として、なぜ我々はここにいるのか、というのがあります。それから、我々の人生の目的は何なのか。


答える価値のない質問ですね。

でもそうした問題は自分の人生を考える上で最も重要だとほとんどの人は言うと思います。存在に関する大きな疑問ですが、科学の枠を超えた疑問でもあると思います。


宇宙の存在目的は何か、と言うのであればそれは全く問題の論点がずらされています。あなたが信心深ければ、それが意味のある問題だと思うでしょう。しかしそれを文にできるからということだけではそれが答えに値するとはいえないのです。神の意志を信じない人はそれが問題として、なぜユニコーンはからっぽなのか? と同じように不当であると言うでしょう。そういう風に言うべきでなないのです。正しい質問とは言えません。答えに値しないのです。

よくわかりません。そういうことはみんな疑問に思うのではないのですか。この世界で我々は何をしているのか、というのは核心的な問題ではないのですか。みんなそうした疑問と格闘しているのではないですか?

核心的な問題というのは、例えばどのように宇宙は始まったのか? 物理則の起源は何か? 生命の起源は? なぜ、百億年以上もたってから、生命がこの惑星で誕生し進化を始めたのか? そういったものです。これらはみな完全に正当な疑問であり、科学はそれに対して答えを出すことができます。今はできないかもしれませんが、そのときは未来に期待できます。非常に深遠な問題もあるでしょう。もしかしたら物理則の起源については、科学では答えが出せないかもしれません。そういうことは全くあり得る話です。いつの日か科学がこの問題に答えを出せると言う物理学者に私も賛成し、希望を持っています。しかしたとえそうならなかったとしても、科学が永遠に解けない究極の問題というものがあったとしても、だからといってどうして宗教がそんな問題に答えをもたらしてくれると考えるのですか?

本の中で、論争は好まないと書いてありますね。これは多くの人にとって驚きではないかと思います。あなたは科学と宗教の戦争で批判を一手に受けるようになっているからです。なぜそのような強烈な反応を引き起こすと思いますか?


論争それ自体を楽しみたいとは思いません。戦いのためにスポイルされたくないですね。友好的な議論をしたいと思います。しかし私は専門的な研究者ですし、そういう研究者は議論することには慣れています。そして議論するときは激しくなるんです。できる限り証拠を示し、その証拠を使って主張を技術的にあやつります。ですから私が熱いという印象を持たれるかもしれません。でもだからといってわざわざ論争を攻撃的にしてやろうと思っているのではないのです。

インテリジェント・デザインの推進者ウィリアム・デムスキー*2からのメールがここにあるのでお聞きします。彼はあなたの遠慮のない無神論に感謝しています。あなたへのメールにはこう書いてあります。「一神論と、もっと一般に言えばインテリジェント・デザインへの素晴らしい引き立て役になってくれているあなたへは感謝したいと思います。あなたとあなたの著作はインテリジェント・デザイン運動へ神がお与えくださった最高のの贈り物だと、事実よく仲間に話をしています。これからも頑張ってください!」 これについてはどう思いますか?


そうですね。とても重く受け止めています。とても難しい政治的ジレンマに直面しているのです。アメリカでは現在進化を公立学校で教えることをめぐって大きな戦いが起こっています。間違いなく科学は攻撃にさらされています。進化はこの戦いの最前線にいると言えます。そこで科学を守るロビーが出来上がりました。これは実質的には進化を守るロビーと同義です。さて、進化が公立学校で教えられるべきかという狭い問題について、アメリカで訴訟があったとき、勝ち目はあるでしょうか。私のような人間が証人として召喚され、相手側の弁護士が「ドーキンス教授、あなたはダーウィニズム的進化を研究して、その結果無神論に行きついたのでしょうか」と問われれば、はい、と言わざるを得ません。これはもちろん相手の手のひらで踊らされています。陪審員無神論者は悪魔の手先だと教え込まれてきたでしょうから。ダーウィン無神論につながるのであれば、明らかにダーウィニズムは追放されなければならない、ということになるでしょう。これがデムスキーが狙っていることですね。私の発言が好ましいとデムスキーが言うのは、私のおかげでダーウィニズムなら無神論だと定式化でき、私をいいように操ることができるからです。

でもデムスキーだけではありませんよ。同じことをいろんな科学者から聞いています。筋金入りの進化論者たちも、率直に言ってあなたにはレトリックをトーンダウンしてほしい、と思っています。


これはほんとにそのようですね。

おかげで進化を教育する大儀に傷がつく、と言っています。創造論者に燃料を注いでいるだけじゃないかと。


まさしくそうです。彼らは政治的におそらく正しいのでしょう。これは本当の戦争が何なのかによって変わってきます。彼ら科学者のように、進化の教育をめぐるものと見るのか、私のように、超自然主義自然主義、宗教と科学をめぐるものと見るのか。後者だと考えるのなら、進化教育をめぐる戦いは、戦争のなかのただの小競り合い、局地戦にすぎません。あなたが話した科学者は私に黙り込んでほしいと思っています。私は自分が戦争として見ているものに勝つために、この局地戦では敗北の危機にあるからです。そして彼らにとってこれは政治的な論点として意味があるのです。

多くのそうした科学者は真剣にグールドの NOMA という概念を受けいれていると思います。彼らは筋金入りの進化論者ですが、宗教は全く異なる領域だと言っています。ですからあなたはその燃え盛るレトリックで自体を悪化させ彼らを困らせているのです。


彼らは全く同じことを言ってますね。これこそグールドが NOMA という概念を発表したそもそもの政治的な理由ではないかと思います。ナンセンスだと思いますし、そういう風にこれからも言い続けたいと思います。でもなぜ彼がそう言ったのか、そしてほかの科学者がそれに追随したのか、政治的な理由というのは容易にうかがうことができます。ここにある政治性は非常にストレートなものです。科学ロビーというのはアメリカではとても重要ですが、彼らは分別ある宗教人、つまり進化を信じている神学者や司祭、牧師たちを自分の側につけたいと思っているのです。そしてそうした分別ある宗教人を味方につけるには科学と宗教の間に矛盾はない、と言わなければならないのです。我々科学者はみな、信心深いかどうかにかかわらず進化を信じています。そこで、主流派正統的宗教人を味方につける必要があるため、彼らに神への根本的な信仰に関しては譲歩しなければなりません。しかし私の考えでは、そのことで進化の問題という局地戦に勝つために大きな戦争に負けることになるのです。局地戦のために戦争に妥協する用意があるのなら、それは実利的な政治的戦略だということです。

時代を通じて、そういった政治的妥協に落ち着いてきました。もしかしたら私もそうした方がいいのかもしれません。しかし私はこの戦争はもっと重要なものだと思っています。事実私は至高の存在が本当に存在するのかどうか強い関心があります。ですから、間違っていると信じているものをを口にすべきではないと思います。つまり神の存在についての問題は非科学的な問題であるとか、科学と宗教とは互いに接点がないから、みんな気楽にやっていけるし、狂信的な創造論者は締め出せる、とか。私が口にすべきではないと思います。

進化をめぐる戦いについてもう少し話をしたいと思います。ダーウィニズム的進化論は論理的な帰結として無神論に至ると考えるのはなぜなんでしょうか。


論理的かどうかはわかりません。私は意識の高揚と呼んでいます。至高の存在を信じる最大の理由はデザインについての主張だと思います。生き物は特に複雑で美しくエレガントで、デザインされたかのように見えます。我々はみなデザインされたように見えるものは、実際にデザインされたんだと思い込んでしまうようにできています。ですから、ダーウィン以前は、ほとんど全ての人は一神論者であったということに何の不思議もありません。ダーウィンがやってきて、そうした主張を吹き飛ばしてしまいました。今では生命の存在についてもっとエレガントで切れ味の鋭い説明が存在します。

かつて神を信じる大きな理由は生物学的デザインについての議論からでした。ダーウィンによりこの議論は崩れ去りました。彼はそれに並び立つ宇宙論についての議論には手を出しませんでした。宇宙の起源は何か。物理則の起源は何か、というものですね。しかしダーウィンのおかげで、ものごとを説明する科学が意識に掛け合わされ高められました。また彼のおかげで、自分たちにはすぐに説明が浮かばないからというだけで、盲目的、無批判にデザイナーにすがっていれば安心、というわけにはいかなくなりました。ですから「宇宙が神なしにどうやって成立したのかわからない」と言う場合、かなり気を使う必要があります。生物学をめぐってすでにひどい目にあってしまっているんですから。これが意識高揚というものです。そこではダーウィニズム無神論へ帰結することになると思います。

ではあなたが「本当の戦争」、超自然主義自然主義の戦争と呼ぶものについて話を移したいと思います。多くの宗教人はあなたが還元主義者、唯物論者であると言っています。そうした人たちはドーキンスはなんでもかんでも測定可能で実験により検証可能なものに話を持っていきたがる、と言っています。「測定できなければ、検証できなければ、それは現実にあり得ない」とあなたは言っていますね。


「還元主義者」にも「唯物論者」にも含意があります。それは多くの人にとってはネガティブな含意です。私はもっと広い意味で還元主義者であり、唯物論者です。非常に複雑なものの構造を説明しようとするときには誰もが還元主義者になり得ます。私たちは脳の振る舞いはニューロンによって説明され、ニューロンの振る舞いはニューロン内の分子によって説明され、という風に。同様にコンピュータでも可能です。コンピュータは集積回路でできています。集積回路では非常に多くの1と0がシャッフルされているにすぎません。これは多くのことが説明されないままのように思えるという意味では還元主義的です。コンピュータには集積回路レジスタトランジスタ以外には何もありません。それでも先ほどの説明は、コンピュータが行う驚くほど複雑な作業の仕組みを理解する上で、非常に洗練された説明なのです。ですから「還元主義的」という言葉を還元主義的に使うのはやめましょう。「唯物論」についても同様です。

でもこれは個人の主観的な経験を軽視しているように思えます。人が話す神秘的な経験、なにか大きなものとの一体感を軽視しているのではないですか。こうしたものは科学が説明できる領域を超えたところにあるのでしょうか。


申し上げたとおり、脳は非常に複雑です。脳の行いには幻想や幻覚を映し出す驚異的なソフトウェアをつくりあげるというものがあります。毎晩夢を見ますが、そのとき脳は幻影を作り出します。これは少なくとも目が覚めるまでは非常にリアルに見えます。幻覚といっていいような経験は誰にでもあるのではないでしょうか。このことは幻想を一瞬で作ってしまうという脳のすごさを示しています。もし十分に脆弱で、特定の宗教の物語に十分に毒されてしまっているのであれば、幻覚を見、幻聴を聞くというのは全く驚くことではありません。私に起こったとしても私は全く驚かないでしょうね。

このことは実は宗教と科学の論争全体にかかわる重要な問題だと思うのですが、意識というものをどう扱いますか? つまり、心は完全にニューロンのネットワークや脳内での電気化学的電圧変化に還元可能だと考えているのでしょうか。それとも何か別の、脳の物理機構を超越したものがあるかもしれないと考えていますか?


もう一度いいますが、「還元可能」という言葉をネガティブな意味では使うのはやめましょう。脳にある膨大な数のニューロンや、ニューロン同士が結びつくことによる複雑さを、「還元可能」という言葉をネガティブな意味で使って説明したいとはだれも思わないでしょう。意識というのは生物学、神経生物学、数理研究、進化生物学が直面している最大の謎です。とても大きな問題です。私に答えはわかりませんし、誰も答えを知りません。またこの問題に帰ってきますが、たとえ科学に答えが出せないからといって、どうして宗教にできると考えるのでしょうか。科学がこれまで説明に失敗してきたというだけで、宗教がどこからともなく最初から作り出してきた、軽薄で哀れな説明が議論に勝利するのは当然で間違いない、というのは全くもって馬鹿げた話です。誰も意識を説明できていません。このことはもっと研究を重ね、理解を深めようとするための刺激になるはずです。あきらめて、「ああそうか、これは魂に違いない」というのではなく。だってこれは何も意味しません。何も説明していません。そういったとき、何も言っていないに等しいのです。

これまで話してきたことの多くは、科学が限界を持っているのか、ということに行き着きます。あなたの宗教批判に対する基本的な立場は、科学はこれだけしか説明できない、というものです。そこに神秘が入りこみ、意識が入りこんできます。


神秘に対しては二通りの反応の仕方があります。科学者はそれを挑戦と考えます。研究すべき対象であり、実際それにメスをいれようと努力していきます。しかし神秘を喜んで迎え入れる人もいます。彼らは最初からはそれを理解しようとはしていなかったんだと考えます。聖なるものが神秘にはあり、それに手を出すべきではないと肯定的に受け止められます。さて、科学に限界があるとしましょう。そのときにそのような限界に「宗教」というラベルを貼り付けることに何か価値があるんでしょうか。科学が説明できるものの埒外にあるものを宗教と定義したいというのであれば、議論をしていることにはなりません。私たちは「神」という言葉を科学が説明できないものと定義して使っているだけですから。そのことに関しては問題はありません。しかし神が超自然的、創造的、知的存在である、と言うのであればこれは問題だと思っています。科学が説明できないものがある、だから信心深くなければらならい、と表明するのは単なる言葉の混乱ですね。そうした宗教性と人格を持った知的存在への信仰をごっちゃにする。これは用語の混同ですし、悪質な混同ですね。

*1:グールド、「ダ・ヴィンチ二枚貝amazon:4152083972より。読んではいませんが、エッセータイトルとして存在するのでそれを訳語にしました。ここでは NOMA で通します。

*2:デンブスキーとも。また、こちらも参照