どうして現代フットボールではプレッシングがこれほど重要なんだろうか

ジョナサン・ウィルソンのガーディアンの記事より。

http://www.guardian.co.uk/sport/blog/2010/apr/06/question-pressing-crucial-modern-game

どうして現代フットボールではプレッシングがこれほど重要なんだろうか

1981年10月、ヴァレリイ・ロバノフスキーのディナモ・キエフがゼニト・レニングラードを3−0で下し、10度目のソ連リーグタイトルを確たるものにしたとき、スポルティヴナ・ハゼタ紙はヴィクトル・マスロフがすでに亡く、彼の考えるサッカーの具現化が、これほどまでの高みで実現されているのを見ることができなかったことを嘆く記事を掲載した。先週の水曜日にアーセナル戦で彼らのコンセプトをまた別のレベルで具現化したバルセロナを、マスロフもロバノフスキーも見ることができなかったというのは残念というしかない。

この1週間指摘され続けてきたように、バルセロナの素早いパス交換、絶え間なく続く攻撃、フィールドを上下し続けるサイドバックたちは強いときのブラジル代表を思い起こさせる。しかし彼らを動かす前提となるプロセスはマスロフ、リヌス・ミケルス、ロバノフスキーの系譜に連なるものなのだ。

ペップ・グアルディオラは、昨シーズンのチャンピオンズリーグ決勝後にこう語った。「ボールがなければ我々は悲惨なチームです。最悪のチームです。ですからわれわれにはボールが必要なのです。」この言葉はアーセナルにも同じように使えるかもしれない。アーセナルももちろんながらボールをキープしているほうがずっとよいチームだ。両者の違いは、バルセロナアーセナルよりもはるかにボールポゼッションの回復がうまかったという点にある。

昨水曜日の試合では、開始20分でバルセロナのポゼッションが72%を記録した。これはどんなチームを相手にしてもなかなか予想できる数字ではないし、アーセナルのようにパス能力に秀でたチームを相手にすればなおさらのこと。これほどまでにポゼッションで優勢だったのはバルセロナが技術的にすぐれている―おそらくそれは正しいのだろうが―というのが大きな理由なのではなく、彼らがプレッシングに秀でていたからだ。試合開始からまもなくの間、彼らは素早くタックルを繰り出し、縦横無尽に動き回り、敵陣奥深くでもプレスを仕掛けた。情け容赦のない攻撃だった。ピッチ上には休める場所はなかった。ゴールキーパーからボックスのすぐ外にいるサイドバックへパスするときでさえも。

アーセナルはやられまくった。何度も何度も、普段ならボールキープに問題のない選手でさえもボールを失った。おそらくは怪我により十全ではなかったという指摘通りだったにせよ、セスク・ファブレガスがこの試合の前半45分で見せたようなまずいパス回しをしてしまったというのは信じがたいことだ。アンドレイ・アルシャヴィンは混乱してブスケツに突進し、ガスコインのように膝を壊してしまった。

心理的な要因

これが語られることのないバルセロナの強さだ。彼らはポゼッションに優れているというだけなのではなくて、ボールを保持している相手チームを不安にさせるのだ。アーセナルだけを考えてみるのではなく、昨年5月のローマでのマイケル・キャリックアンデルソンが惨めにパスを失敗し続けたことを思い出そう。これはバルサがスペースを封じるのがとても素早かったからだというのも一理あるが、同時に心理的な理由もある。バルサはポゼッションにとても優れていて、彼らからボールを取り返すのはとても難しい。だから相手チームがボールを持ったときはいつでも耐えられないくらいに貴重なのだ。簡単なパスでさえも大きなプレッシャーがのしかかる。失敗したら大変なことになってしまうからだ。

ポゼッションでいえばバルサほどではないが、ドゥンガ率いるブラジル代表も幾分同じような感じだ。これはロブ・スミスが言っているように、1982年以来やってこなかったスタイルでプレーしていると信じさせることができているから、というのもある。とても多くのフットボール批評家が、コンフェデレーションズカップコパアメリカでのブラジルの成功にどうやら首をかしげているらしいのはそういう理由があるからだ。昨年ドーハでイングランドを1−0でやぶった試合をスタンドから観戦していたジョン・テリーは、負けてなお「彼らの個人能力は高く1対1に強い」けれども「ブラジルが脅威だとは全然思わない」と強調した。

実はブラジルの選手たちはそうでないのだ。個人能力というのは彼らの強みではなく、まとまりこそが強みなのだ。そして彼らは規律をもってプレッシングを行うから、ボールを保持しているときの技術が高いこともあって、対戦相手はほとんどボールを持てない。これはウェイン・ルーニーが試合後のインタビューで見せたものからもわかる。ルーニーの真っ赤な顔は彼がどれだけ無駄なボールチェイスをやっていたかを雄弁に物語っていたのだ。

注目すべきは最近のブラジルが見せた一番出来の悪い試合で、これはエクアドルとのアウェーでのワールドカップ予選で起きた。この試合ではジュリオ・セーザルのセービングのおかげで惨敗せずにすんだのだが、キトという街はご存知のように高地にあるから、ハードなプレッシングがずっと難しくなってしまうのだ。

衝撃と畏怖

バルサは優れたサッカーをしているけれど、それにしてもこの試合の開始20分は抜群だった。とすると、いつもこのパフォーマンスが出せないのはどうしてなのか、そしてその後の70分はどうしてそこまでではなかったのか、という疑問が生まれる。もしかしたら自己満足に陥ってしまったのかもしれない。もしかしたらアーセナルが茫然自失の状態から立ち直って自分たちのプレーを取り戻し始めたのかもしれない。もしかしたらアルシャビンエマニュエル・エブエと交代したことで右サイドのディフェンス力が向上したのかもしれない。こういう説明はとてもありふれているはずだ。

いずれにせよ、歴史が物語っているのは、この試合の開始後しばらくのバルサのように、チームとしてすべてが完璧にかみあった状態になったとしても、それが数分以上持続するというのはほとんどない。これまで最高のパフォーマンスと称されるものでもだ。たとえば1972年の西ドイツはイングランドをウェンブリーで3−1で破っているが、実際にすばらしいプレーをしたのは開始後35分間だけだった。1953年にイングランドを6−3で粉砕したハンガリーでさえ65分以降が素晴らしかったのであって、前半終了までは調子がよくなかった。超越、というのは定義上実現するのが難しいし、維持するのはもっと難しいのだ。

でも同時にバルセロナの開始後の優位は計算済みのプランだったと言えるかもしれないし、だからロバノフスキーとの比較が適していると思う。もちろんミケルスとクライフの影響の方がより直接的ではあるのだが。バルセロナが水曜日にやってのけた強いプレッシングは体力を消耗するから、長い時間続けることはできない。

ロバノフスキーは、アナトリー・ゼレンツォフとの共著「トレーニングモデルの形成の方法論的根拠」において、3種類のプレッシングを説明している。敵陣奥深くまで追い回すフルプレッシング、ハーフラインより後ろで行うハーフプレッシング、そしてプレスしているように見せかけるが実はやっていないという偽プレッシングである。偽プレッシングではボールをキープしている敵選手を1人の選手が追いかけるが、他の選手たちはじっとしている。

技術的に優れたチームを相手にするときはとりわけ、相手を混乱させる目的でフルプレッシングを早い時間帯にしかけることをロバノフスキーはよくやった。そうしておけばあとは偽プレッシングで十分にミスを誘えたからだ。それにもちろんフルプレッシングの後では楽に先行することが多かった。

グアルディオラがこうした練りに練った理論を持っていたかとは思えないけれど、バルセロナ側には早い時間帯で自分たちを見せつようとする努力があったというのは十分にあり得る。ただ問題だったのは、キーパーのアルムニアが素晴らしい働きをして、バルサ側に不運とフィニッシュ力が欠如していたせいで、20分たっても先行できなず、一方で今シーズンのアーセナルは終盤でゴールを決めることが多いことからもわかるように、かつてのアーセナルよりも打たれ強かった、ということだ。

プレッシング・バック

アーセナルは自分たちもプレッシングで立ち向かおうとしたが、これははっきりいって見るに耐えないものだった。開始当初で揺さぶられたということは考慮すべきだが、それにしてもこの2チームの差ははっきりとしていた。プレッシングが効果的に働くためにはチームはコンパクトにまとまり続けなければならない。ラファエル・ベニテスタッチラインで見えないアコーディオンを弾くように手を狭めているのをよく見かけるのはこれが理由だ。アリゴ・サッキによれば、センターフォワードセンターバックとの距離はボールを保持していない場合25mが好ましいとされる。だがオフサイドトラップの自由化(これについては次週詳しく)により、この計算はすこしばかり複雑になった。

アーセナルの攻撃陣はプレスを仕掛け、その結果ミッドフィールドのラインとの間に大きなスペースが生まれるということが何度も繰り返された。あるいはミッドフィールドでのプレスによってバックラインの前にスペースを生まれてしまった。こうなると、ボールを保持している選手は対峙する選手をかわしてスペースへ逃れることができるし、スペースへ駆け込んでくる選手へ簡単にパスできる。これではプレッシングは意味をなさない。こういってもいい。アーセナルはまるで、偽プレッシングをしているかのようだった。でも彼らは最初の頑張るステップをやらなかったから、プレッシングがうまいんだと相手チームを納得させることができなかった。

ハーフタイム後は状況がさらに悪化した。どうやらアーセン・ヴェンゲルがハーフタイム中に指示を出し、バックラインを押し上げるように伝えたのだ。でも、タイミングよく組織だって押し上げないと、1点目のようにフォワードへの単純なフィードや、2点目のようなスルーパスを許してしまうという問題がある。これはアーセナルが過去2年間に何度もやらかしてきた問題だ。昨シーズンのエミレーツでのアストンヴィラ戦でのガブリエル・アグボンラホールのゴールはその典型例だ。

ウォルコットプロトコル

試合の流れがアーセナルに傾いたのは――といっても2点を奪った終了前の25分間でさえ、試合を支配したとは言えないのだけれど――テオ・ウォルコットが交代出場してからだ。1年半前にザグレブイングランドクロアチアを4−1で下したとき、ウォルコットはキープレーヤーだった。これは単に彼がハットトリックをなしとげたというだけではなくて、彼のスピードがクロアチアの左の攻撃システムに影響を与えたからだ。ユーロ2008でクロアチアは右利きのイヴァン・ラキティッチが内側に切り込み、サイドバックのダニイェル・プラニッチがオーバーラップすることが多かった。でもプラニッチウォルコットを自分の後ろに置く危険性を察知したため、オーバーラップできなくなった。攻撃の脅威という点でプラニッチは無効化され、一方ラキティッチは予測可能になった。いつも内側に入ってくるけれどサイドバックを引きつける選手がいなかったからだ。これは利き足が逆のウィンガーの欠点だ。

プレースタイル上本質的に、バルセロナも同じようにサイドバックのエリアが弱い。とくにダニ・アウヴェスはディフェンダーとは言えないような選手で、だからドゥンガマイコンを好むのだけれど、バルセロナがポゼッションで優位にたっていればそれも問題ではない。ダニ・アウヴェスの仕事はもう一人のミッドフィールダーになることと、メッシのためにオーバーラップすることだからだ(もしかしたらダニ・アウヴェスがいつものように前に出られないことがあるという恐れこそが、グアルディオラがメッシを右サイドではなく偽9番で使おうとした理由なのではないだろうか)。

これがバルサのプレッシングがあれほど素晴らしかった理由の1つだ。サイドバックが前に出ることで、バルサのシステムが実質的には2−5−3によく見えるのだ。これほど多くの選手がそこまで高い位置でプレッシングを仕掛けることはギャンブルだけれど、成功しやすいギャンブルでもある。去年のCL準決勝セカンドレグでのアウヴェスに対するフローラン・マルダのパフォーマンスはこのギャンブルが失敗し、バルサがポゼッションで優位にたてない時にどうなるかを示していると言える。

ウォルコットの登場はバルサのプレッシングを混乱させた。プラニッチのように、マクスウェルは肩ごしに後ろをのぞき始めたからだ(同じように、チャーリー・デイヴィスがサイドバックの後ろに斜め方向に走ったことが、コンフェデレーションズカップアメリカがスペインに勝利した大きな要因だった。これによりセルヒオ・ラモスが前に出れず、スペインのミッドフィールドがとても狭くなってしまったのだ)。

それまでにもサミル・ナスリはアウヴェスに対して幾分効果的だった。開始後1時間でのほとんどすべてのアーセナルの攻撃はナスリが起点になっていたり、ナスリのつくったスペースから始まっていた。そしてバルサの立ち上がりの圧倒的な攻撃に耐え、ポゼッションを回復し始めれば、アルシャビンもマクスウェルに対して同じようなことができたかもしれない。でもウォルコットのスピードはまた別の側面を生み出した。ウォルコットというサイドアタッカーが前に出てしまうとしまうと、追いつくことは不可能だということをマクスウェルはわかっているからだ。もしかしたらここからウォルコットをスタメンで使えという意見になるのかもしれない。でも先週の試合ではエブエ抜きにはポゼッションを回復することはできなかっただろう。

そしてこれが、アーセナルの切実なジレンマなのだ。バルセロナの弱点をつくために2人の選手をワイドな位置で攻撃的に配置させるが、このアドバンテージを最大限に生かせるだけのポゼッションを保てないという危険がある。ポゼッションを保とうとしてもっと注意してプレーすれば、そのアドバンテージを使えるような攻撃が生まれなくなる可能性がある。

でもそれよりも重要なのはプレッシングの問題だ。たとえほかのすべてが対等であったとしても、バルサアーセナルよりもずっとはるかにボールを取り戻すことに長けていたという事実に変わりはなく、その事実からバルサがポゼッションを支配し、その結果として試合も支配するということになるのだ。これにはマスロフもロバノフスキーも同意してくれたはずだ。