Atheism Tape 4

簡単な説明

Atheism Tapes のトランスクリプトがあったので訳してみました。これは4集、リチャード・ドーキンスとの対話です。ジョナサン・ミラーはイギリスのオペラ演出家、のようで、最近無神論についての(哲学的な)ドキュメンタリーを作成しました。そのときに数人の著名人にインタビューを行うのですが、それが「濃かった」ので、独立させて個別のインタビュー番組として放送された、ということのようです。

そういう背景があるので、少し抽象的な気もします。ビデオはこちらから

文中 JM としたところはミラーの、RD はドーキンスの発言になります。ナレーションはミラーが行っています。ところどころ意味不明な部分がありますので指摘してください。誤訳には気をつけてください。おわり。

イラク戦争と宗教について

ナレーション:イギリス人生物学者リチャード・ドーキンスは今ではおそらく科学者であると同時に無神論者として有名です。この対話のなかでも明らかなように、進化論がかれの宗教的信仰の土台を崩すのに大きな役割を果たしていています。たまたまこの対話が行われたのがイラク戦争の開始直後だったので、ダーウィンに入っていく前に、キリスト教徒であるイギリス首相、そしてアメリカ大統領の政策において宗教が果たす役割について考えることから始まりました。

RD:ブレアはあきらかにブッシュよりもはるかに知的に洗練されています。このことは容易にうかがえます。しかしブッシュがただの単純で世間知らずですが、ブッシュもブレアも善と悪の間で戦争がある、と考えているのではないかと思います。それにブッシュ、それから多くのアメリカ人にとって、サダム・フセインとオサマ・ビンラディンとの区別はつけられないんではないかと思います。奴らはみんな「悪」であると思っているんではないでしょうか。そうであるがために、アメリカ人は9・11以降のテロリズムへの真の戦いからイラクという全く関係のない戦いへ簡単に切り替えることが出来たんだと思うのです。イラク戦争というのはいつ起こってもおかしくなかったものです。しかしどうなったかというと、9・11で人々の注意が「悪」や自分たちに歯向かう連中がいるんだという事実に向いたということです。それで悪ならどんなものでも心配してしまう人々の感覚を狂わせることが非常に簡単になったと。

JM:彼らを悪の提唱者だと認識することで、悪というのが何かの原理だという風に考える、と。これは私が思っていてたぶんあなたもそう思ってると思いますが。

RD:そうですね。

JM:悪が世界に存在するというか…

RD:そういう精神があるというか。

JM:精神ね。じゃあ、悪という概念が自立的な原理として、神性への宗教的信仰と分かち難く関係しているとは考えますか?

RD:うーん。両者は非常に似ていて、悪も善も擬人化してしまうという衝動が人間にはあるんだと思います。善悪が人としてすべきこと、つまり良いこと悪いことですね、そういうことを記述するだけのものと認識しているのではないと思います。そうではなくて擬人化して、善の精神があるとか悪の精神があるとか、そういう風にしてしまう傾向があると思います。そこから両者の間での戦いが想起されます。悪い人々は戦争して殺してもよい。そうすることによってずっと多くの悪ではない人々のなかからテロリストのような行為をその結果行ってしまうというようなことは考えられなくなるわけです。

JM:言い換えると、命に限りのある邪悪な行いの提唱者だけではなくて、言うなれば、目に見える明らかなことの背後に、なんらかの形而上的な原理があって、それが永続するということですか。

RD:それが彼らの考えていることだと思います。ブッシュは文字通りに受け取っているんではないかと思うし、ブレアは無意識的にそういう風に考えているんだと思います。

JM:とすると、これは世界の形而上的原理の存在についての宗教的信仰のより大きなほう、つまりキリスト教であれイスラム教であれそうした宗教の、不可避の結果になりつつある、と。

RD:たぶんそうです。そういうことはより大きな宗教的信仰についてくると思います。それがその信仰から直接くるか、あるいは両者とも同じような心の傾向があるのか、私はよくわかりません。全ての人間にはある程度そういう傾向は持っていると思いますが。

ナレーション:しかしもし、ドーキンスが言うように全ての人間に信仰するという傾向があるのだとすれば、彼自身が若い頃に信仰したかもしれないものはどの程度であったのか知りたく思いました。自分を無神論者、あるいは非信仰者だと、程度の差はあれ強く自認する人々と話をしていて、どのように彼らがそこにたどり着いたのか、それとも元々無神論者だったのか、知りたくなりました。そこでドーキンスに生まれたときから宗教的な考えを持たなかったのか、聞いてみました。

ドーキンスと宗教のかかわり

RD:いえ、私は普通の国教徒として育てられました。初めて信仰を疑うようになったのは、非常に様々な宗教があって、すべてが正しいということはあり得ない、ということに気づいたときです。国教徒として育てられているということが、本当に偶然でしかない、と気づいたときです。そのことで宗教に対する疑いが芽生え、その結果非信仰者みたいなものに9歳ごろにはなっていたと思います。でもそれからまた宗教的信仰は持つようになりました。それも16歳くらいまでですね。

JM:ちょっといいですか。その決定的な瞬間というのに興味があるんだけど。

RD:はい。

JM:自分が疑いを持ち始めたものへ回帰するということをどういう風に思っていますか?

RD:あれはデザインに関する議論だったと思います。私はものすごい複雑さ、とくに生命の複雑さをすごいと思うようになりました。でもそのころダーウィニズム的な説明というのは理解していませんでした。ですから何かがあたかもデザインされたように見えれば、それはたぶんデザインされたんだろうという無知な考えをしていました。16歳くらいのころになってようやく別の説明にたどりつくのですが。それでそのとき、ダーウィン的な説明がなくても、デザインというのは生命の複雑さを説明するには非常によくないという風に考えるようになりました。そこには無限回帰があります。デザインを説明するにはデザイナーの存在を説明しなければなりません。ですからこれはあまりいい説明ではないのです。最終的に16歳になって、ダーウィニズムを発見しました。ダーウィニズムを教えられて、生命の複雑性を十分に説明するだけでなく、すばらしくって衝撃がはしるくらい単純な説明があるということを理解しました。それがダーウィニズムに基づく進化論だったのです。

JM:それは喜ばしかったでしょうか? それとも後悔の苦しみというか、自分が失ったものへの後悔というか、そういう感じですか?

RD:後悔というのは覚えていないですね。喜びだったと思います。なんというか世界観から解放される喜びというか。この世界観というのはいつも不十分なものでした。それに自分が世界の有様を説明してくれる十二分の説明にたどりつけたんだというポジティブな感覚は楽しかったですし、そのことを詳しく理解しようというのが若いうちにできてうれしかったですね[?]

JM:なるほど。じゃあ、9歳から15歳までの時代に戻れるかな。9歳のときにたくさんの宗教があるということに気づいて疑いを持ち始め、15のときに言ってみれば、生物学におけるダマスカスへの道をたどりはじめたというか、ダーウィンを読んだわけですね。あなたにとって、あまり疑問を持たない宗教というのはどういうものなんでしょう。服従とか、祈りとか、そういうことについて。

RD:はい、9歳から15歳までは非常に信心深かったと思います。授堅されましたし、祈りもしています。寄宿学校で幻想も体験しています。礼拝堂へ忍び込んで祈りをささげて、天使なんかの幻影も見ましたよ。それから堅信礼に準備してたのも覚えています。あれは当時でも意味のないごみのようなものだと思っていました。なんというか、自分を信仰させようと無理強いしていたんですね。学校ではキャソックを着た牧師が私に語りかけてくるわけですから。でもそれが固定化することはなかったですね。無意味なものでしたから。世界がこんなに美しく、それにはデザイナーが必要なんだというような議論にはついていけたでしょうけど、そういう話は全然ありませんでした。原罪とかそういうのばかりで、そういうことについては当時でも一貫性がないなあというのはわかりました。

JM:じゃあある意味で、それは創世の美とかよりも道徳性とか、罪深さというのに結びついていたと。

RD:堅信礼への準備はそうだったと思います。

JM:つまり、牧師から、人間の本質において、なんらかの罪を背負わされている、と常に言われてきたんですかね。

RD:おぼえてないですね。おぼえているのは奇妙な世迷い言で、たとえば「病気は罪を犯したからだ」とか、そういうことです。病気が、細菌とかウイルスとか、悪性腫瘍とかのせいではないのです。それは罪の結果だというのです。そういう風にいわれましたし、それに後になって他の人々がそういう風に話しているのを聞いたことがあります。彼らは明らかにそれを深刻に受け止めていました。そうした人々は信仰するということが、論理的でないだけではなく、非常に不快でもあるということを理解していないように見えました。

ダーウィニズムを知る

JM:16歳のときに、ダーウィンと親しくなったということだけども、これはダーウィンを教えてもらったんでしょうか? それとも自分で「種の起源」を読み始めた?

RD:いえ、教えてもらったんです。

JM:では、ダーウィンを教えた人たちは、神学的重要性をダーウィンがもっているという事実を知覚していた、あるいはそういう風に見えましたか?

RD:そうは思わないですね。そういう文脈で教えられたものではありませんでした。

JM:そのことが神学的に重要な意味を持っていると気づき始めたのはどれくらい経ってからですか。デザインに関する考えが頭によぎったのは。

RD:ダーウィニズムの原理を理解したのは、それが自分の疑念から解放してくれるほど偉大だと思うよりも前のことだったと思います。原理を理解して、それからこれは自分の疑問を解決するのにはいいかもしれないと思い出しました。でも十分だとは思いませんでした。そう思うようになったのは後になってからです。

JM:その点に関して、質問したいとおもうんですが、これは視聴者の視点と言うか、ちょっと変な質問なんですが、ダーウィニズムの…

RD:いいですよ、どうぞ

JM:一番説得的なものの概要を教えてほしいんです。

RD:まず、進化という事実と、世代ごとに起こる変化を明確に分けておきたいと思います。世代ごとの変化というのが、バクテリアの祖先から、現代に存在する全ての生物に導いていくものなのですが、それは非常にゆっくりとした変化であり、どの世代にでも確認することはできないようなものです。それが事実問題として確認されるものです。これは直接確認されるのではなく、化石や生物のパターンという形で変化の影響により確認されるのです。そこで問題が生じます。それをそのようにならしめた導き手というのはなんなのか? 自然淘汰です。これを思いつく限り最も啓蒙的な言い方で説明するならこうです。すべての生物は、自分自身を表現するデジタル化されたデータを持っています。このデータには自分自身を格納する身体の設計書が書かれており、また自分自身のコピーを多く作らせるような指示も書いてあります。こうした指示書は生き残ったり滅んでしまったりしますが、これは身体がどれだけ生き残るのがうまいか、また子孫を多く作り、データを残していけるかにかかっています。こうして世界はデータ化された指示書であふれます。それは、生き残る身体をつくって、同じものをたくさん複製するようにすることに成功するための指示書です。

JM:うーむ。この、私にもあなたにも非常に説得的な議論を聞いた人がいつも挙げる反論がありますね。「へえ、でも自然淘汰による淘汰圧で生じた価値ある新しい属性というのはどこからやってくるんですかね?」 こう言うと思うんです、「ええ確かにそうした属性自身でしょうが、たとえそこに淘汰圧が影響するとしても、そうした新規の属性自身が説明されなければなりません」

RD:新規の属性というのはもちろん遺伝子プールのなかにある遺伝的な変異です。これは究極的には突然変異からやってきますし、近接的には減数分裂による組み換えで起こります。独創的なものとか、精巧なものとかはそうした属性には全くないのです。つまりそうしたものはランダムにおこると言いたいのです。それに、ほとんどの場合有害で、ほとんどの突然変異というのはよくないわけです。ですから自然淘汰の正の側面というものを見る必要があります。あたかもデザインされたかのような幻想をもたせるような生き物をつくりだすのは自然淘汰だけなのです。デザインの幻想は新規の属性からくるわけではありません。それが自然淘汰というフィルターにかけられたときに起こるもの、から生じるものなのです。

JM:でもそういう主張はいつも非難されますね。鳥の羽のように、繰り返し発達していくなかで、最終的に便利なものになった変化というものが感知できない、と非難されるわけです。そういう人たちはいつも、そういう新規の属性が、認識できるくらいに適応的機能を果たすようなところにまで発達するまではどうだったんだ、というわけです。ただのニキビに過ぎない何かに対する価値を、自然淘汰はいつ手に入れることが出来るのでしょうか。

RD:そうですね、これはまっとうな論点で、私が何度も話してきたことです。有益でない中間段階というのはこれまであり得ませんでした。自然淘汰に、ある種の予知能力といったものがはいる余地はありません。「次の100万年間は生き残るだろうからこれが便利になるんじゃないか」そういうことは起こりません。淘汰圧というのは常に存在しているはずなのです。

JM:そうすると、細胞の中で「さあちょっと我慢して、羽になるんだ。ほんとだよ」とかいうようなプロセスはないということですか。

RD:ないですね。(笑)Sydney Bremnerという研究者がなかなか綺麗に皮肉っているんですが、カンブリア紀に生じたタンパク質が保存されるというんです。「これは白亜紀に役に立つかもしれない」って(笑)。もちろんこんなことは起こりません。羽にはずっと有利な点があり続けなければなりません。思いつかないというのは、疑問に思った側の問題であって、自然淘汰にとっての問題ではありません。これはたぶん私すれば信念の問題だと思います。この理論は非常に一貫性があり、強いものですから。羽のことをおっしゃいましたが、羽が爬虫類のうろこから伸びるふわふわしたものとして、保温効果を持つものとして始まったというのは全くあり得る話です。最終的に完成形として鳥類に見られるような翼の羽というのがずっと後になってやってきたというのもあり得ますね。ですから最初期の羽は爬虫類から、熱を保持するためという、多毛性の一つのアプローチだったかもしれません。何度も何度も垣間見ることになりますが、ある器官がある機能を果たす目的からスタートして、それから修正されて別の機能を果たすようになるという事例はよくあります。

しかし、特定の中間形態がどんなものだったか、考えつく生物学者の想像力の豊かさを問題にするというのはあまりいい考えではないでしょう。それがどんなものか考えられるだけの想像力がないというだけかもしれないからです。もっと一般的な主張について考えるべきでした。つまり、私たちはどういう場合でも「ああ、これがなんでそうなるのか説明を思いつかない。だからこれはデザインされたに違いない」というべきではない。「Xがなんで起こりえたのかわからないから、Xはデザインされた」というどんな主張も、致命的な弱みがあります。まるで有名な科学的発見をとりあげているかのようですが。。。[?] Hodgikin と Huxleyが神経のインパルスがどのように作用しているのか調べたのですが、これは非常に難解な問題で、非常に高度な数学が必要でした。彼らにはその研究が難解すぎた、と想像してみてください。「ホジキン、神経インパルスの作用の仕組みがどうしてもできないんだけどそっちはどうだ」「だめだハクスリー。そうだ、もう研究するのはやめて神が創り出したんだ、ということにしないか」 彼らがそう言ったとすれば私たちは彼らを尊敬するようになったでしょうか。ですから、「どうなっているのかわからないから、デザインという説明に頼ることにしよう」、というのはあきらめであり、敗北主義につながるのです。

JM:そうですね。明白な、意識的なデザインという形態を創造主のほうでとっていなくても、あなたの言っていることに符号すると思われる概念は、19世紀に、生命の根源という概念を引き起こすようなものだったと思います。

RD:まさにそうです。生命の根源、原動力。こうしたものは何も説明しません。問題を言い換えているだけです。でもそうした概念は有害です。何か説明しているような気になりますから。あいまいではあるけれども、何かを説明しているように聞こえる。それに人間世界にある複雑なものはデザインされ創造されたんだと考えることに人は慣れてしまっています。しかし「これは神によってデザインされたんだ」といっても何も説明していることにはならないのです。どこからデザイナーがやってきたのかという問題が残されますから。ですからこれは説明ではない。説明になりうると考えてもいけないと思います。

JM:どうしてなんでしょう。今ではなぜ考えられなかったのか驚いてしまうようなことなのに、19世紀の本当に優秀だった生物学者たちは生命の根源といった空虚な説明を、生命誕生の説明として使ってしまったというのは。

RD:我々にとってはそれがナンセンスだとわかる、というのは大変結構なんですが、他に何もよりよいものがなかったとしたらどうでしょうか。たとえばヒュームの時代のことを想定してみましょう。ヒュームだったらこれがいい説明ではない、と言ったでしょうし、彼は実際正しかったわけですが、一方でその説明に変わるよりよい代替案は持っていませんでした。ですからそれが明らかに良い説明でないという哲学的な論点にこだわるというのは非常に聡明かつ勇敢でなければなりませんでした。それに実際問題の解決には十分満足する形で説明を与えたダーウィンを待たなければなりませんでした。ヒュームがダーウィンの説明を聞けたとしたら、たちまちとりこになっていたんではないか、と思います。

現代問題としての宗教/無神論

ナレーション:ドーキンスにとって。進化論は彼の心に育つ神の不信を支えることになりました。では、彼にとってどうしてそれほど無神論というのが差し迫った問題なのか、知りたいと思いました。

JM:なぜこの主張がこの21世紀のこの時点でそんなに重要なんでしょうか。あなたや私にとってはこの問題はもうかたがついています。それでも私たちは論争のさなかにあります。なぜなんでしょうか。

RD:科学者として私にとってこのことが重要なのは、超自然的なデザイナーという仮説を科学的な仮説だと考えているからです。この仮説は間違いだとは思いますが、科学でもあると思っています。「別に反対はしませんよ。宗教がかかわりを持つのは道徳の分野であって、科学は世界の有り様に関心があるわけで、この二つには問題はないでしょう」と神学者が言うことにはあまり我慢ができません。私は問題だと思います。超自然的な創造者、デザイナーあるいは何であれ、そういうことを語るときは、正しいか間違いか、どちらか一つの科学的な仮説を提出しているからです。超自然的な知性や超自然的な主上心が含まれるような宇宙というのは、純粋に科学的な観点から見て、そうでない宇宙とは全く異なります。これは非常に大きな違いです。そして私がもっている宇宙観、つまり超越的な心というものなどない、という宇宙観を持つというのは科学的に興味深いと思っています。私たちよりはるかに優れた心というものがないと言っているわけではありませんが、そうしたものが現実になるには、ゆっくりとした漸増的なプロセスをたどらなければならないでしょう。そういうものが最初からあったわけではないのです。

反対の見方をする人は、超自然的な知性が、始原より存在し、始原を創り出したと考えるのですが、そこでは全く、180度異なる科学的仮説が提出されています。この仮説は正しいか誤りであるかのどちらかでなければなりません。最終的に白黒はっきりつけることができなくても、少なくともそれが全然別の仮説である、と認めなければなりませんし、そうなるとそれは問題になるわけです。

JM:でも宗教的な人というのがこういう風に主張するのをよく見かけます。「うーんそれは本当ではありません。それに私たちはそれを科学的仮説とは考えていません。それは信仰への盲従を必要とするものだと考えています」 言い方をかえれば正しいか誤りか証明できるようなものではない、ということですね。正誤の判定ができないのは、証明、反証、研究といったものが無関係な存在や実在の領分に属するからだ、というわけです。あなたを創造者と重ね合わせてくれる、盲目的な信仰というものがある、と。

RD:そういうことを聞くと自分が冷酷だと思いますね、共感が芽生えてくることすらありません。原理的にはいずれにせよ証明不可能だというのは理解しますが。私が信じてもいいと思えるように、その問題を解決できるようにする科学的な検証方法というのは存在しないかもしれませんが、それでも正しいかそうでないかどちらかだ、という論点はのこると思います。信仰への盲従というのは、他者と共有できないような、また他者に提示できないような、心の中だけにある啓示の感情を指し示した言葉だとおもいますが。私にしてみればそれはただの心的妄想にすぎないように思えます。

JM:じゃあなんでそういう人たちは信仰への盲従という概念を持ち出してくるんでしょうか。それも弱さではなく、あなたや私には欠けている美徳として。それにそこには独特の意欲みたいなものがあって、その意欲というのが、なぜか我々にはない何らかの寛容な精神につながるんだと。

RD:まずこれまでのお話を踏まえて、今話題になっているような人というのは、創造説といったようなことを主張するような人よりもずっと洗練されている、ということは強調しておきたいと思います。ただ創造説を信奉しているだけの人間は神性によるなんらかの世界への介入があったんだと思いたいわけですが、今お話の連中はそうは思っていないからです。内的な啓示により信仰にすがる人というのは、神が本当は世界に介入しない、ということはおそらく受け入れるんだと思います。そうでなければそれが科学的仮説だということを認めないといけなくなりますから。ですから神が仕事をする領域というのは、客観的世界とは奇妙にも切り離されているようで、神というのは純粋に人間が個人的にもっている内的な感覚にのみ関わるもののようなのです。

JM:おそらく、残念ながら、と言ってしまえるくらいに我々が排除されてしまった領域ですよね。

RD:そうですね。

JM:そしてそれはなんというか、才能というか、寛容というか、盲従といった要素を持ちえていないからで、おかげで私たちは神の美と威光から切り離されてしまっていると。

RD:恋に落ちるといった感覚がどんなものかわからない、みたいな。

JM:そうです。

RD:決定的に何かが足りない。何か失ってしまった。そうですね、そういうのは理解できます。でもたぶん私たちはそれほど失ってはいないと思いますよ。あなたも私も、ある種の人智を超えた脅威とおそらくは同種の感覚を持っていると思うのです。星々や銀河を考えるとき、何十億年と言う時代にわたる生命の展開を考えるとき、どうなるでしょうか。私も、たぶんあなたも、神秘主義者が感じるのとほんとに同じような感情を持つと思います。彼らはそれを神と呼んでいるだけです。そういう理由から私を宗教的だと言われるとすれば、それはただの言葉遊びだと反論したい。圧倒的多数の人々が「宗教的」という言葉で指すものは、そういう超越的、神秘的な体験とはまったく異なるものだからです。世界に介入し、何らかの影響を与える存在だということを指しているのです。ですからそれは科学的仮説になるのです。

私の言い方で言えば、宗教的な人も、そうでない人も感じるような超越的、神秘的な感覚というのはそうした仮説とは全く異なるものです。この意味では私は宗教的だといえるでしょう。あなたもたぶんそうです。でもだからといって、超自然的な存在を肯定しているわけではないのです。世界に影響を与えたり、奇跡を起こしたり、全てを思いのままにしている、あるいは祈ったり罪の許しを請うたりするような存在はいないのです。

JM:脅威、畏怖、威光や神秘の感覚というものを認めてしまうと、月桂樹の茂みの中の聖職者と呼んでいるものが出てきます。あるいは別に大きな物事ではなくて、たとえばミトコンドリアについて考えるだけでも、ウィリアム・ブレイクが砂粒のなかから見出したようなもの、月桂樹の茂みの中の聖職者を呼び込んでしまう。その聖職者が飛び出てきて、「やっぱりあなたも私たちと一緒じゃないですか」って言うんです。

RD:そのとおりです。そうしたことは何度も何度もありました。これは非常に不誠実だと思います。言葉をいじくりまわしているだけで、理解していないし、普通の人々が使うように言葉を扱っていない。ですから宗教、神といった言葉を世界中の誰でもが理解できるものを表すのに使いたいと思っています。それでそうした月桂樹の聖職者なんかと共有する感情には何か別の言葉をとっておきたい。

JM:しかし、、そうしたことを認めてしまうと、知りえない事物があるということを認めてしまうと、いつも宗教的なものからの示唆があるようです。別に正統的な宗教だけではなくて、エネルギーとか振動とかアロマとかを信じやすい人もそうですが。彼らは「何かあるに違いない」と言うんです。

RD:それは意味が通りません。それは…

JM:それで私は彼らが「何かあるに違いない」って言ったときに「何かはあるでしょう。それは全てだ」と。

RD:はい

JM:「それは超越的な原理なんてなくても存在しますよ」と。

RD:私だったらもっと強く反発すると思います。科学者として宇宙やミトコンドリアについて考えたときに得られる驚異の感覚というものは、宗教的神秘主義についての伝統的な物事を考えることで得られるものよりも、本当にずっと偉大なんだ、と言うでしょうね。