リチャード・ドーキンス、『祖先の物語』をめぐるインタビュー

ドーキンスのインタビュー、第三弾。
http://www.powells.com/authors/dawkins.htmlより。
今日本語で手に入る最新の、祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上 をメインにしたインタビューですし、時系列的にもこれが一番古いので、これを読んだ後に、
ドーキンス無神論その1その2
フライング・スパゲッティ・モンスター
を読むといいんではないか、と思います。


このインタビューでは宗教や創造説といったものはあまり言及されず、利己的な遺伝子ミーム、グールドとの論争、それからもちろん『祖先の物語』などに質問がおよびます。それから個人的な部分にも話は進むので、その辺も興味深いです。歴史上の人物と会えるとしたら彼はだれを選んだか。

インタビューは2004年10月に行われました。インタビュー中の小見出しはぼくが適当につけました。

インドネシアで見つかった「ホビット」と分類学について

ホモ・フロレシエンシスの発見についての最初の感想は?


とても興奮しました。まだ絶滅せずに生き残っているかもしれない、という推測もありましたが、そういう風に考えるのは楽しいですね。ニュースを聞いて真っ先に思ったのは、抽出できるような DNA が残っている可能性はあるだろうか、というものでした。この化石はたった 18000年しかたっておらず、 DNA 断片が残されていてもおかしくないくらい新しいといえます。事実だったら素晴らしいんですがね。ロンドンのサンデータイムズとロサンジェルスタイムズに、この発見についての記事を書いたりもしてます。


外見上そうみえるからといって実際は違うかもしれない、という疑いの余地は確かにあります。この化石もホモ・サピエンスの突然変異かもしれません。遺伝病としての小人症の有名なタイプとしての特徴も持っていますし。結局のところ発見されたのは、一体の骨格でしかありません。歯の形状が特異ですが、別の種であるとは言えないかもしれません。DNAがあればこのことは解決されるでしょうから、そういう意味でもDNAが抽出されるといいですね。

人類の分類についてさらに聞きたいのですが、ヒトはショウジョウ科*1に分類されるべきだと思いますか? それとも類人猿がヒト科に分類されるべきなんでしょうか。


そういう分類学的な問題についてはあまり研究していません。私にとって重要なのはそこから出てくるもの、たとえば倫理的な考察といったものです。純粋な分類学者はまた別の意見かもしれませんが、私は純粋な分類学者ではないので。興味があるのは進化それ自体であって、名前についてはあまり気にしていません。

というと、界とか門とかいったリンネの分類システムがまた別の系統分岐に関する分類システムに置き換えられるといったことにはあまり興味がない、と?


その通りです。そういうことに興奮してる人にはイライラします。

そういうのは生物やシステムに対して人工的に押し付けたただの記号だということですね。


そうです。

似たような質問なんですが、亜種というのは進化上の出来事を想像するのに有効なんでしょうか。


そうだと思います。客観的に定義可能のように装っているこの分類学的なヒエラルキーにおいて確実なレベルというのは「種」だけです。それより上でも下でも分類は主観的になります。ですからそういうことについてもあんまり興味を持っていないですね。

グールドとの論争について

あなたとスティーブン・ジェイ・グールドとの確執疑惑はメディアでよく取り立てられましたね。彼と意見が一致していたのはどういうところだったんでしょうか。それから見解の相違の基本的なポイントというのは。


自然界に対する驚異の念、そしてそれを愛する気持ち。それから進化は事実であり、自然淘汰が適応の唯一の根源だ、ということでは一致していました。一方で淘汰がどのレベルで起こるのか、ということに関しては不一致がありました。彼は自然淘汰が生命のヒエラルキーの異なるレベルで働いていると考えていましたが、私はこのことに関しては厳格な見解をとっていました。私は自然淘汰のユニットとして二つの異なるタイプに区別をつけたいと思っています。自己複製子と乗り物ですね。自己複製子は自分たちの集団のなかで割合が増えたり減ったりするようなものです。これは個体や群、あるいは種といったものではありえないのです。個体の割合が増えるとか減るとかということは無意味ですから。個体というものは存在するかしないかのどちらかしかないのです。一方で遺伝子プールにある遺伝子は、プールの中で増えたり減ったりということは明らかにあり得ます。ですから遺伝子では成功が、プール内での頻度によって定義される。生命のヒエラルキーでは、他のどのレベルにも当てはまらないことです。ですからそうした他のどのレベルも真の自己複製子とは呼べません。こうした自己複製子はテクノロジーの分野で存在します。例えばコンピュータウイルスは真の自己複製子です。生物学上のヒエラルキーの中では、遺伝子こそがそれだと思います。


一方乗り物というのは、また別のタイプのユニットです。生物個体というのは一つのユニットです。ユニットとして振る舞い、ユニットとして見え、ユニットとして走りまわり、またその周りを皮膚で囲まれ、同じタイプのほかのユニットと同じ構造をしている、という意味です。これを乗り物と呼ぶのは、乗り物の中で運搬される遺伝子によって作り上げられるからです。そして運搬される遺伝子あるいは自己複製子を保存し、増殖させるための機械でもあります。ですから自己複製子と乗り物という、二つの異なるタイプのユニットがあるということになります。生物個体は自己複製子ではなく、乗り物です。では高次のレベルのユニット、つまり群や種といったものは乗り物になれるでしょうか? まああるかもしれませんが、あまり重要なタイプの自然淘汰ではないでしょうね。群淘汰とか種間淘汰というのは。生物の特定の器官をみて、これは種を絶滅させないための適応なんだ、とは言わないと思いますね。


それからたぶん、断続平衡説にも言及しないといけませんね。これは私にとっては重大なものではありません。断続平衡説は経験的な事実としては、特定の化石の系統においては進化上の重要なパターンであるかもしれません。例外として問題になるのは、なにか根本的に革命的な、非ダーウィニズム的でさえあるようなものとして研究が積み重ねられたということです。これは明らかにナンセンスです。グールドは断続平衡説を提唱したとき、ダーウィンが漸進主義者だと言っています。これは正しいのですが、だからといってグールドが漸進主義者ではない、という意味ではないのです。ダーウィンが漸進主義者という意味では、グールドも漸進主義者なのです。ダーウィンが漸進主義を主張した背景には、複雑さが適応により進化していくことを説明しなければならなかった、という事情があります。たとえば眼の進化といったものに関して、ダーウィンは漸進主義の立場を取りました。眼のようなものが無からいきなり生じるなんてことはあり得ないんだと主張したんです。ダーウィンの時代に彼が戦っていたのは隠れ創造主義者で、そういう人々は進化上困難と思われる跳躍には、神が手を差し伸べている、と考えていました。ですからダーウィンが漸進主義者だというのはそういう意味です。そして同じ意味においてグールドも漸進主義者なのです。断続主義はダーウィンが漸進主義だったという意味では漸進主義なのです。さらに混乱があります。断続、という言葉を全く異なるプロセス、例えば大規模突然変異といったものに対しても使われたことがあります。実際グールド自身もそんなことをやってしまっています。それに大規模絶滅に対してさえ使われました。奇妙にもあいまいに、彼らはそれを不連続であると考えました。もちろんこれは不連続でしょうが、違いが大きすぎるので、同じ名前を与えられるべきではありません。

生物学、特にエネルギーの拡散が秩序だった構造を創り出すという概念に対して適用されるような複雑性に対してはどういう意見を持っていますか? これは自然淘汰にとっては二次的なものなのでしょうか。


そうですね。つくり出される構造がどれだけ秩序だっていようが、複雑であろうが、そうしたものが適応的でない、つまり改善に結びつかないという限りにおいてはあまり重要ではありません。話としてできるのは、淘汰の候補になる複雑性です。変異というのは何か、と問われれば、それは淘汰のために用意されるものだ、ということはできます。このとき変異が少数の量的変化、つまり長くなったり短くなったり、太ったりやせたり、黒くなったり白くなったりするようなものである必要性はありません。これはたぶんダーウィンもそう考えていたと思います。発生という複雑な過程では、前の世代と一段階だけ異なるというようには見えないタイプの構造がつくり出されます。たとえばある複雑な器官全体が鏡像としてつくり出されるといったものです。こういうものが発生過程でつくり出され得るかもしれません。発生というのはそういうものですから。ですから、淘汰が機能するための候補が複雑であるということはあり得ますし、新たに生じる変異というは前の世代のものとは複雑に異なるということもあり得るでしょう。

利己的な遺伝子

私が動物学を学んでいたときに、群淘汰というのはほとんど邪悪であるような扱いを受けていました。それは口にだすべきものではない、そんなものは存在しないんだ、と。こういう見方は行き過ぎていると思いますか? 群淘汰の例というのはあると思いますか?


いや、そんなものはないとおもいます。あったとしてもごくごくまれでしょう。理論的な可能性としてはあるかもしれないといわれてきました。それが進化的に重要であるということだけ、これまでに否定されています。近年いわゆる群淘汰主義の復興というものがあるのは事実ですが、話されている中身はまた別のことだと思います。といっても何が話されているのかちょっとはっきりしないんですが。かなり混乱があるみたいですね。血縁淘汰であるばあいもありますし、群淘汰という用語を血縁淘汰に使おうとする人もいます。私はこれには反対ですね。W.D. ハミルトンの理論にメイナード=スミスが血縁淘汰と名づけた理由は、これと群淘汰をはっきりと差別化するためでした。血縁淘汰では遺伝子の淘汰が起こっています。時にはそれは血縁-群淘汰として表されますが、これは経済的でもなければ役に立つ名称でもないですね。たとえば応報という概念*2を使用する人で、自分のことを群淘汰論者だという人はいます。、進化的に安定的な協力のためのユニットが成立することはあります。二つの個体あるいは個体が集団で協力するのは、その中の誰もが集団に属している方が属さないほうよりも生存率が高くなるからで、もちろんこれは非常に一般的に見られます。これは群淘汰ではありませんが、近年の文献ではこのことを群淘汰と呼ぶ人もいます。しかし中身はというと、集団内にいる個体は生存率が高い、というものです。集団が生活するのによりよい環境をもたらす、だから個体は集団に属そうとする。集団がまとまるようにするために対策がとられることさえあります。しかしこれは群淘汰ではありません。群淘汰というのは、集団としての生存率が敵対する集団よりも高い、と説明されるものです。

自然淘汰は生物、つまり表現型に対して働くわけですから、延長された表現型もそこにかかわってくると考えていますか? たとえば、自然淘汰はビーバーのダムに対しても作用するものなのでしょうか。


それはほぼ間違いないですね。遺伝子がビーバーのダムに表現型としての影響を与えるという意味で、ですが、これは確実に事実です。ビーバーのダムから遺伝による変化を追跡することは十分に可能です。このことには100%の地震がありますね。これは明らかにダーウィニズム的適応です。遺伝子が淘汰されて出来上がったものなのです。それが延長された表現型という概念の全てです。つまり、表現型の変異というものは、遺伝子の変異に従属しているものなんです。でもこの表現型は乗り物自身ではなく、その外部にあるのです。ですから延長された表現型というのは乗り物の統合性を概念上分解したものといえます。今まで質問されてますが、この本についてのものは一つもないですね(と言って『祖先の物語』を指差す)。ありますか?

「進歩」という概念

そちらへ向かおうとしていたところです。それに、次の質問はまさにこの本についてです。『祖先の物語』は進化を逆向きに進行するという形で構成されています。進化に対する誤解には、スティーブン・ジェイ・グールドの大きな論点でもあるんですが、進歩という概念に関するものがあります。進歩といえるようなものは進化のプロセスに存在するのか。あなたはこの本の中で、程度によるが進歩というのは存在する。しかしそれは方向性を持つものでなくてもいいんだ、と見事に説明されていますね。


その通りです。多数の部分から構成され、それが一つに綺麗にまとまっているような、複雑で美しくエレガントな適応というものがあるときはどうでしょうか。さっき話したポイント、ダーウィンが漸進主義者だったというところに戻りますが、眼あるいは耳といったとても複雑な適応の進化というものは、一瞬にして出来上がるといったものではあり得ません。ですからそれは漸進的な改善であったはずです。最初の眼はほとんど何も見えなかったでしょうが、それに続くものはちょっとだけよく見えたでしょう。さらに次はもっとよくなる。だんだんと、眼が持つ特徴は前のものに積み重ねられたステップとして現れます。これが進歩的というものですし、これは疑う余地はありません。また、どんな複雑な適応に対しても同じことが言えます。とてもよく適応した動物は、それが捕食する側であれ捕食から逃げる側であれ、あるいはまたよく太陽の光を受けたり、地面から水を吸収するのによく適応した植物であっても、そうした適応というのはみな進歩的であるに違いないのです。グールドが反対し、私ももちろん反対する進歩とは、進化が人間に向かって方向付けられていた、というものです。このことこそ私がこの『祖先の物語』を逆方向に書いた理由です。人間に向かっていく、というような印象を持たれたくなかったのです。

多くの人があなたの利己的遺伝子という概念に反対するときに犯す間違いは、あなたが遺伝子は意志を持っている、つまり自己複製したいと思っている、と主張しているのだ、と彼らが言おうとしていることです。でも『祖先の物語』で明らかなように、この立場をあなたは取っていない。


もちろんです。そんなことを言い出すとすれば私は頭がおかしいということになります。そういうのはみんな後付けで考えられたものなのです。自分自身を生存可能にする遺伝子、そういう遺伝子を生存価脳にする表現型、そうしたものが私たちの身の回りで観察できる遺伝子なのです。世界はそうすることに長けている遺伝子でいっぱいになります。「長けている」、というのは段階をたどっていく、という意味で、時には意図を持っているようにも見えるかもしれませんが、それは単なる後知恵です。

ミームと宗教

最初にミームという概念を『利己的な遺伝子』の中で紹介してからこの概念はどのようにあなたの中で進化してきましたか?


これを使って人間の文化の理解のために貢献しようなどということは一つも思ったことがありませんでした。もちろん可能であれば喜ばしいとは思ったでしょうが。自己複製子という概念は遺伝子よりももっと一般に通用するものであり、また『利己的な遺伝子』全体のメッセージは自己複製子であって、遺伝子について書いたのはたまたまにすぎない、という論点を理解してもらおうとずっと思っていたので、ミームという概念を使ったのです。コンピュータウイルスを使って説明してもよかったのですが、当時はまだ発明されてなかったと思います。ミームは自己複製子という概念の一般性を説明するための教訓的なツールでした。人間の文化の理解にも役立つとすれば、大歓迎ですが、そのことは本来の目的ではありませんでした。これについてはスーザン・ブラックモアやダニエル・デネットなどの人がもっと積極的に取り上げていますし、そうしていることはうれしいです。でも『祖先の物語』では触れていませんよね。

いや2,3箇所ありますよ。スーザン・ブラックモアとデネットについても言及しています。


OK、たしかに。

このインタビューにあたってミームについて考えたのは、なにか物理的に伝達されるミームというのはあるのか、というものでした。記憶はニューロンの経路を流れる活性化エネルギーを通して蓄積されるわけですから。


そうですね。もちろん伝達されたものが伝達する側のものと全く同じかどうかはわかりませんが。DNAの場合は両者が同一です。ある遺伝子を子供に伝えたとすると、その遺伝子は親でも子供でも記録されている内容は同一です。でももちろんそれがミームにもあてはまるかはわかりません。私があなたに曲や詩みたいなものを伝えたときに何かが伝達されているには違いありませんが、あなたの脳の中で変化する物理構造が私の脳の中で変化したものと同じかどうかはわからないのです。でも、複製が忠実に行われてさえいれば、そんなことはあんまり問題ないと思います。明らかにそういうケースは存在します。


言葉は忠実に複製されますね。誰かが文書をタイプしたら、それを見て次の人がタイプする。さらに次の人が…というようにずっと続きます。突然変異と言えるようなタイプミスは少しはあるでしょう。でもそこに書き込まれた、表現型としての情報は同じです。このことはアナロジーとするのに十分だと私には思えますし、少なくとも部分的には意味があるでしょう。ここでは脳の中で起こっていることおが同じかどうか、というのはあまり問題ではありません。

最近の研究では、私たちの脳は様々な宗教的ないし聖的な経験に弱いかもしれないということが明らかになりました。このことはメディアでは素朴にも「神の遺伝子」と呼ばれています。宗教は人間の集団に適応的な影響を与えるのでしょうか。それとも宗教はただの心に巣くうウイルスなのでしょうか。


科学と宗教は両立不可能です。繰り返しますが、適応、と言うときに私は個体のための適応という意味で使っていません。自己複製子のための適応、という意味で使っています。ですから、宗教が人間の生存に役立つと想定する必要は、可能性はあるにせよ、ありません。宗教は宗教の生存に役立つ、その方が維持するのは楽だ、ということは必然だ、と私の話からは言えます。そういうわけでウイルスのアナロジーが出てきます。宗教思想が広まって広まって広まって、世代を通して受け継がれていき、また広がっていく。そうすると多かれ少なかれ本質的に、宗教が宗教というレベルで適応上成功している、ということになります。宗教が人間個人の生存に役立つか、というのは全く別の問題です。そこでの問題は次のようになるでしょう。宗教を信じる人間の方がそうでない人間に比べてより生存しやすいか。これは宗教を信じる人がストレスから解放され、ストレスに起因する病気などにかからない、という理由に基づいています。宗教思想がただ単に宗教的思想自身にとって適応的に価値がある、という考えに比べると、この問題はあまり面白くないし、説得的でもないですね。

別の思想、例えば科学もまた人から人へと広がっていく思想ですが、科学はもっとパワフルな複製機能を備えているのでしょうか。


そうですね、これは場合によると思います。「これはウイルスか」と言われれば、ウイルスという言葉はネガティブな意味合いで使われることが多いのですが、「自己複製子か」と言われれば、おそらくそうだといえます。しかし良い遺伝子は、速く走らせたり、異性の受けがよくしたりといった個体の生存に役立つために複製されます。それと同じ意味で科学的な思想はそれが良い思想だから広まっていくと言えます。どのような思想も、宗教的であれなんであれ、広まっていくのはそれが広がるために広がり、またその結果広まっていく、というものです。このとき個人の幸福というものには関係なかったり、あるいはそれが犠牲となることさえあるでしょう。宗教はまさにこのタイプだと思いますね。このときウイルスという言葉はそうした思想に対してふさわしいと言えます。コンピュータウイルスとマイクロソフトExcel との違いのようなものです。Excel が普及するのはそれがいいプログラムだからですが、ウイルスが広まるのはそれが広まるからです。

宗教に関していえば、進化、特に人類の進化は常にアメリカの教育上ホットな争点になっています。創造論者はインテリジェント・デザインという新しいモデルを手にしています。インテリジェント・デザインに対する基本的な反論としてはどんなものがあるでしょうか? 『ブラインド・ウォッチメーカー』を読め、というのはダメですよ。


(笑)そうですね、彼らがこれは創造説とは違うんだ、と主張しているのは不誠実だと思います。この活動自体が本当に不誠実だと思っています。彼らが言おうとしていることは本質的に同じで、彼ら自身もかつての創造論者たちです。これはただの政治トリックで、創造説をこっそり持ち込みたいのでしょう。創造説は宗教と同一視されすぎていて、合衆国憲法政教分離の原則に違反することになるからです。しかしインテリジェント・デザインの背後にある動機は明らかに宗教です。宗教運動家が地元の教育委員会支配下においてしまっていることにアメリカ社会が手をこまねいているのは見ていていやな気分になります。まともな科学者らは、世界中の運動家が活発的、献身的に時間を使って運動しているのを傍目に見ながら、自分たちはもっといいことをしているんだと思っていてもいいのかもしれません。しかし残念ながら少なくともアメリカでは、真の科学者はこのいらいらする時間の無駄でしかない迷惑行為に対して貴重な時間を割かねばなりません。

海の向こう側、あなたの国ではそういう問題はあまり大きなものではない?


そうですね現状では問題ないですね。これには政治的な理由があると思っています。それほど創造論者はいませんし、政治権力もない。権力を取るためにアメリカの創造論者のやり方をまねようとし始めているところですね。ですから本当はイギリスでも警鐘を鳴らさなければならないと思っています。

『祖先の物語』

『祖先の物語』の執筆にはどれくらい時間がかかりましたか?


5年です。

すごいですね。アイデアをひらめいてすぐに書き始めたんですか? それとも構想を練ってから始めたんでしょうか。


書き始めたのは逆向きに進んでいく、というアイデアを考えつく前です。出版社はありきたりの順方向の生命史を望んでいましたし、私も順方向で書き進めました。それからすぐに、研究助手のヤン・ワン(Yan Wong)と協力するようになりました。彼はこの本の共著者でもあります。それで二人でこのことについて議論に議論を重ね、後ろ向きに進めた方がいいのではないかという考えに次第に傾いていきました。このアイデアを巡礼、それからチョーサーの物語として組み立てようということになり、それでこの物語に行き着きました。一歩一歩進んでいった感じですね。

時間を決めて執筆するのですか? それともひらめいたときに書く、という感じですか?


いや、そうだったらいいんですが。違います。うまく行くときとうまく行かないときがあって、うまく行っているときは活発になるし筆も進みます。そうじゃないときはさっぱりですね。

現在も教鞭はとっていますか?


大してないですね。私の今の仕事は科学理解の普及です。ですから大抵は外に出て講義したり、公開講座を行ったり、本を書いたり新聞や雑誌に記事を載せたり、ラジオでしゃべったり、といったことをしています。

いわば科学大使、といったところですね。


なかなかいい表現ですね。

自然あるいは自然史の中であなたの興味をひきつけたものにはどんなものがありますか? 「うわ、これはすごい!」と言わせるような、そういう昔から興味をひきつけたものはどんなものなんでしょう?


この『祖先の物語』の中にもたくさん書いてあります。例えば、ちょうど今夜朗読しようと思っているのですが、ハエの幼虫の話があります。この幼虫は泥の中で穴を掘ってさなぎになるのですが、この泥は乾燥して干上がります。次の年に雨が降ったとき成虫は羽化して飛び立ち、子孫を増やしていきます。さて、泥が干上がったとき、泥にひびができる危険は常にあります。それでこのひびは幼虫が埋まっているところを横切ってできあがってしまうかもしれません。そこでこの幼虫は、自分自身を泥の中に埋めてしまう前に、ワインの栓抜き状にらせんを描きながら泥を掘り進みます。それから向き直ってまた逆のらせんを上に向かってつくっていきます。ですからこれでもろい円筒上のものが出来上がるわけです。幼虫はこうしてはじめてこの円筒の真ん中部分にもぐっていき、さなぎになります。泥が干上がってひびができるときには、この円筒の外周部のもろい部分を通るので、真っ直ぐは進みません。これは明らかな予測行動の美しい一例だと思います。ほかの例を言うと、クモの巣。これは『Climbing Mount Improbable』でまるまる一章を割いています。同様に『ブラインド・ウォッチメーカー』ではコウモリの音波探知機について書いています。ああ、たくさんありすぎますね。昆虫に向かって水鉄砲を飛ばすテッポウウオとか。

カエルの凍結耐性は私のお気に入りです。


それもいいですね。はい。

最近読んだ本にはどんなものがありますか?


このプロモーション旅行ではずっと小説を読んでいます。ウィリアム・ボイドの本で、1904年ごろに生まれて、晩年に死ぬまで、ある男の生涯を描いたもの(Any Human Heart)とか。これはある虚構の人物の生涯から見た20世紀史といえるものです。ほかにもアリソン・ルーリーの、フロリダ州キーズを舞台にした素晴らしい物語。これはキーズでの女性同性愛がからむ個人的な物語ですね。たまたまこれが最近読んだ本ですね。

何回も読み直すような本はありますか?


ええ、たくさんあります。いやたくさんでもないか。でも何回も何回も読む本はあります。イーヴリン・ウォーは好きですから、彼の本はほとんど何回も読んでいます。それからP・Gウッドハウス。大声で笑いながら何度も読み返します。そういう点では子供っぽいですね。こどもは本を何度も読むのが好きですから。

ジーヴスとウースターのテレビシリーズ*3はどうですか?


ふたつのバージョンがありますね。最近のスティーブン・フライとヒュー・ローリーのバージョンは、役者自体はものすごくよかったのですが、テレビ向け演出はダメでした。脚本家はウッドハウスよりいいものができると考えたのでしょうが、これは間違いでしたね、そんなことはできませんでした。それで話がぶち壊しになってしまった。昔の白黒時代の、イアン・カーマイケルがウースター役で、デニス・プライスがジーヴス役のバージョンがあります。こっちのほうが断然好きですね。原作に本当に忠実につくってありますから。

科学が抱える大きな問題で、答えを見てみたいと思うものはなんですか?


意識の問題です。これは非常に難しいと思いますし、そもそも問題を設定するのが難しい。それに答えはわかっていません。

知性を数量化することが重要視されすぎていると思いますか?


これは明らかに論議を呼ぶテーマです。それに知性を量的に測るというのは時代遅れですね。一般知性というものを量的に測るというのは賢明とはいえないでしょう。知性には様々な基準があると思います。IQテストをするときはいつもこのことに気づきます。言語能力に関するものはかなり点数が高いのですが、幾何学図形を頭の中で回転しないといけないやつになると全くダメですね。この二つは知性のまったく別の基準を測っているんだと思います。もちろん心理学者はそのことをしっていますし、洗練されたファクター分析なんかをやっています。でも一般的なIQという考えはミスリーディングかもしれません。複合的測定には問題はないと思いますが。ある基準では優秀な成績で、もう一つの基準ではひどい成績をとり、結果として中間的なIQを得点するとすると、これは面白い測定かもしれません。基準ごとに別々に行うよりも一貫性がないですから。

『祖先の物語』では様々な時代にさかのぼっていきます。タイムマシーンで時代をさかのぼれるのなら、どんな生物を見たい、あるいはどの時代に行きたいと思いますか?


うーん。カンブリア紀と言ってしまうと、ちょっと問題があります。この時代を楽しむためにはスキューバダイビングをしないといけなくなりますから。恐竜時代はワクワクします。身を守らないといけませんけど(笑)。言語が進化し始めた頃の人類進化、もし時代を一つ選べといわれたらこれになると思います。言語の起源、半言語というか、言語がまだ現在のような言語の形をとっていなかったような時代というのはとても魅力的です。でも優秀な言語学者で、学習が早くなければ、何が起こっているのか理解することさえ難しいかもしれませんね。半言語がどんなものか理解するためには、話されている内容が何かを理解しなければならないですから。

『祖先の物語』でも言及されていますが、二足歩行を人類が獲得したのは腕が自由に使えるなるためで、言語は手振りとして始まったのかもしれない、ということですが。


これは二足歩行の獲得についての理論の一つです。ええ、これは面白い考えだと思いますよ。

ニコ・ティンバーゲンとあなたは一緒に研究をされていましたが、彼はあなたの指導教官だったんですよね?


ええそうです。

どんな人でしたか?


親切で、親分肌、いつもニコニコしていて、やさしかったですが頑固で、自分の研究や自然、ダーウィニズムに対しては情熱を持っていました。ひどい鬱になって健康も害していたので、悩みごとに苦しめられていました。複雑な性格でした。非常に優秀で尊敬されるべきですが、ちょっと怒りっぽかったです。一つの問題にこだわり続けるんです。私たちはもう解決したんじゃないかと思ってるような問題だったんですけど(笑)。

あなたがいた当時は彼はカモメを主に研究していたんですか?


うーん、学生もポスドクも多かったので、何人かはカモメを研究していました。たぶんカモメの研究グループが他の動物よりも人数は多かったんじゃないかな。でも彼のところにはいろんな動物がいましたが、それぞれ大体同じ数の学生が研究していました。彼にとっては問題が先にあるのであって、動物ではないのです。「これから行う研究対象はカモメだ」とは言わず、「これから行う研究はこの問題だ。たまたまカモメのことは詳しく知っているし、カモメを研究するにはいい環境があるから、カモメを使って研究することにしよう」と言っていました。

カモメがモデル動物として都合がよかっただけということですね。


そうです。もちろん彼はカモメが好きでしたが。彼は偉大な博物学者でしたから、フィールドワークは好きでしたね。でもカモメだけではなかったですね。彼が好きだった動物はたくさんいます。

博士論文は何について書いたのですか?


配偶者選択に関する数理モデルです。ニワトリを研究対象にしたんですが、別に他の動物でも問題はありませんでした。なんというか、これは古典的なポパー流の思考訓練のようなものですね。モデルを立てて、代数的な予測を演繹し、その予測をテストして、それからまたもどってモデルを修正したりモデルの拡張型を立て、そこからまた予測を出してテストする、これを繰り返しました。量的なものです。

もし歴史上の人物5人と一緒にディナーを共にすることができるとすれば、だれを招待しますか?


うーん、こういう質問はあんまり好きじゃないんですよ。ダーウィン、(しばらく考え込んで)シェイクスピア。たぶん音楽家ではないです。音楽は好きですがディナーで音楽家と話をするというのはそれほど意味あるものではないでしょうから。(また考え込んで)たぶんイエスニュートン。もしかしたらルーシー*4(笑)。

あなたのひいおじいさんが靴ひもを結ぶときに歌っていた(と『祖先の物語』に書いてある)意味不明の童謡はなんだったんですか?


ホーキーポーキー、ウィンキーファン
ポテトの具合はいかがかな
あついつめたいまだかたい
ひとくいじまの王様だ

『祖先の物語』で一番知ってもらいたいと思うことは何ですか? 生命の驚くべき多様性のほかに、人々に届けたいと願っている重要な考えというのは何なんでしょうか?


そうですね、驚いてはほしいですね。それから自分たちの起源は何なのか、生命の起源へと自分たちを直接つなげ、またほかの全ての生き物へも枝分かれすることでつながっていく、細菌にまで連なる一本の長い祖先という糸というのは何なのか、ということにも感動してほしいと思います。表現も気に入ってもらえたらと思います。おもしろく、読みやすくなるよう努力しました。ページをめくりたくなるようなものにしようと思いました。本当に分厚い本なので難しかったですが。それぞれの物語は十分簡単に読めると思います。個々の物語は個別の小論とみることもできます。グールドの小論集にも少し似ていますね。物語同士は糸で結ばれているだけです。つまり時間を逆行する行進ですね。でもこの小論は基本的にはそれだけで読むことができて、他の部分を見なくてもかまいません。ですからどこでも好きなところを拾い読みすることができます。巡礼が何かということを理解したら、どこでも、どんな風にも読んでくれればいいと思います。ですから始めのほうを読まなくては次が理解できないというようなものではないのです。第一章を読んで巡礼という要点がおさえられたら、どこでも好きなところに行けばいいと思います。このとき、基本的原理の概要を理解するために最終章も読んで、それから初めから読み進めたい、と思うかもしれませんね。

*1:チンパンジー・ゴリラ・オランウータンを含む→参照

*2:Reciprocation。たぶんあってると思うけどちょっと不安だけど、『利己的な遺伝子』が手元にないのはなんでだ

*3:ウッドハウス原作。これのことかな?

*4:アウストラロピテクス・アファレンシスのこと?