結構長かった

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1555132,00.html


より一部抜粋して訳しました。
フランシス・コリンズアメリカのヒトゲノムプロジェクトのトップで、The God Delusion では脚注で(セレラ・ジェノミクスの)クレーグ・ショットガン・ヴェンターと間違えんなよって書いてあった人ですね。

The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief
という本も書いていて、テンプルトン賞も近いかも。

コリンズ
ここ3,40年から始まった、社会生物学とか進化心理学と呼ばれる研究分野がありますが、そこでは道徳性の起源や人間社会において利他性が重視される理由について研究されています。そしてどちらについても、遺伝子の保存のための行動として適応された、と説明されます。しかしリチャードも明らかにしているように、自然淘汰が集団ではなく個体に対して働くと考えるのであれば、なぜ個々人は自分のDNAを危険にさらし自分の繁殖機会を減らしてまで、他人を助けるというような無欲の行いをしようとするのでしょうか。自分のDNAを共有しているという理由で家族を助けようとするかもしれません。情けは人のためならず、との期待から他者を助けるかもしれません。そうだとしても、利他性が最も寛容な形で表明されているとき、それは血縁淘汰や互酬性に基づいているのではないのです。オスカー・シンドラーが自分の命を賭して1000人以上のユダヤ人をガス室から救ったのは、極端な例といえるかもしれません。これは自分の遺伝子を守るという原理に反します。これほどドラマチックではないものの、利他的行動は日常普通に見られます。多くの人はこうした特質は神により与えられたと考えています。なぜなら正義や道徳性は私たちが神に帰すると最も容易に考えることのできるものだからです。
ドーキンス
アナロジーから始めてもいいですか。性的欲望は遺伝子を広げるためにある、と理解されていると思います。自然においてはセックスは、繁殖や遺伝子のコピーを広めるということに結びついていることが多い。でも近代社会では普通セックスするときは避妊します。これはまさに繁殖を避けるという目的からです。利他性もおそらくはこうした欲望に起源を持っていると思います。先史時代、私たちは家族社会に暮らしていました。まわりは親類ばかりで、自分たちと同じ遺伝子を持っているから、親類にとって得になることは自分も追求しようとしたかもしれません。しかし現在私たちは大都市に住んでいます。親類や自分の善行に対してお返ししてくれるような人はそばにいないわけです。でもこれは問題ではありません。避妊しつつセックスを行うとき、子どもを持とうという隠れた進化的な意図に動かされているとは気づかないように、相手によい行いをする理由が自分たちの祖先が小さな集団で暮らしていたという事実に基づいている、ということが頭によぎることはないのです。しかしこのことは道徳性、善という概念がなぜ要求されるのかについて、蓋然性の高い説明であると考えます。
コリンズ
ダーウィン的行動が誤って発動することで、私たちの最も高貴な振る舞いが現れる、と主張しても、ここで言う善や悪といった絶対的な価値について私たちみなが持っている感覚を正当に評価したことにはなりません。進化によって道徳性に関する何らかの特徴は説明されるかもしれませんが、なぜ道徳性が現実に意味を持っているのか、という理由については説明できないのです。進化上都合がよかった、というだけであるなら、善悪というものは存在しません。しかし私にとって善悪はそうしたもの超えたところにあります。道徳性があるから神が蓋然性のあるものとして考えることができます。宇宙をスタートさせた神、というだけではなく、人類を気にかけるという意味での神です。なぜなら私たちは非常に発達した道徳性の感覚を持っている唯一の生物だと考えられるからです。あなたのおっしゃったことから察するに、進化の過程を経て出来上がった人間の心の中以外には、善と悪というものに意味はないと。そういうことであっていますか?
ドーキンス
あなたがお聞きになっている質問自体が私にとっては意味のないものです。善と悪、そうしたものがそこらに転がっているとは思いません。どこにも、善と呼ばれるもの、悪と呼ばれるものはないのです。起こったものに対して、それが善いもの、悪いものと判断されるんだ、考えています。
コリンズ
これは私たちの間にある根本的な違いですね。それを判別できたのは喜ばしい。