メイナード=スミス、インタビュー

生物学界の泰斗というか黄門様っていう表現もあったな。ジョン・メイナード=スミスのインタビューというよりは対話です。

まあ前置きにもあるので説明はあんまりしなくていいと思いますが、『利己的な遺伝子』の三割くらいは彼の研究が反映されていますし、また『祖先の物語』は彼にささげられています。

しゃべり方はほんとに黄門様という感じですね。こういう老い方をしたい。

これで最初の5分くらい。ゆっくり進めていこうかなと思います。ビデオを見ましたが、無神論についてぐだぐだやるよりずっとおもしろいです。おすすめ。

まだ途中ですがとりあえずアップ。
http://meaningoflife.tv/video.php?speaker=maynard%20smith&topic=complete
より。

インタビュー

Wright(前置き)
2004年に84歳で亡くなったジョン・メイナード=スミスは20世紀の進化生物学を語る上で最も偉大な人物の一人です。彼によりゲーム理論ダーウィニズムに持ち込まれ、自然淘汰がどのように協力的行動をつくりだしたかについても光が当てられるようになりました。彼の著作には「進化とゲ−ム理論」、「生命進化8つの謎」、「The Theory of Evolution」などがあります。私は2001年に、彼が教鞭をとっていたサセックス大学付近の彼の自宅でメイナード=スミスにインタビューすることができました。
Wright
まず、ここにお招きいただき、またここイングランドのあなたのお家で話をする機会を与えてくださりありがとうございます。多くの進化生物学者が自分たちの人生で思い出すのは、初めて自然淘汰の理論を本当に理解した瞬間、あるいは少なくとも人生で最初にそれに出会い、その説明のすごさを実感できたときではないか、と思っているのですが、そういう瞬間を覚えてらっしゃいますか?
Maynard Smith
ダーウィンを読んだことは覚えています。学校にいたころで、それまでは国教徒として育ってきたけど、そのことに熱意を持ったり、原理主義的だったりというものではなかったですね。でもまあそれは生活の一部としてやってもいいかとおもってました。それでダーウィンを読んで、ちょっと待てよ、こりゃもう一つの説明になるな、と思ったんです。それに最低でも部分的には哲学的、宗教的な意味みたいなものがあって、そういうものにワクワクしたのは初めてだったんです。
Wright
そうですか。自分の宗教的世界観よりもこの新しい哲学が好ましいということがうれしい、という意味でワクワクされたんですか?
Maynard Smith
宗教から逃れるためのとても大きな救いだったと思います。ですから答えはイェスです。
Wright
宗教のどこがいやだったんですか?
Maynard Smith
いやだったのはそのおかげで最後まで考えが進められないということでした。何か考え事をすると、いやちがう、そういう風に考えるとちょっと危険だな、と言う風になってしまった。もしかしたら疑ってもいいんじゃないか、とおもってダーウィンを読んで。それで疑念が吹っ飛んで、自分は正しいし、もう悩む必要もないし。もう信じないぞ、と。その瞬間のことはよく覚えています。
Wright
その感覚の喪失に後悔はなかったのか、というか、えーとあなたが不可知論あるいは無神論といったものへまっすぐ進んでいったんだと思うんですが。
Maynard Smith
そうですそのとおり。
Wright
何か特定の肩書きをつけるとしたら、どう言いますか?
Maynard Smith
うーん、自分は無神論者だと思いますけど、何に対しても絶対にこうだ、と思うのは好きではないですから、不可知論者というのが適切ですね。
Wright
なるほど。では宇宙になにか大きな目的が存在するんだという感覚を捨ててしまったことに後悔はないですか?
Maynard Smith
一度受け容れてしまえばとても幸せだと思うようになりました。これはお風呂に入るようなもんですね。入る前は緊張するけど、入ってしまえば最高だ、みたいな。
Wright
なるほど。
Maynard Smith
信仰を捨てることはしんどかったですが、捨ててしまえばそこには素晴らしい世界がありました。
Wright
捨てたことには後悔はない?
Maynard Smith
全然。
Wright
そうですか。このことは後で話題になるかもしれませんが、今は別の質問をしますね。あなたは進化生物学にゲーム理論を持ち込んだおそらく第一人者として非常に有名なんですね。このゲーム理論というものは、普通は、ものを考え、意識をもった合理的存在に対して使われるものだと考えられていますし、それに実際人間に対して適用されるようにデザインされました。
Maynard Smith
その通りですね。
Wright
それであなたはこれを、鳥とか虫とか、意識的合理的な考え方をあんまりしないような動物に適用され、またそれだけではなくて遺伝子にも適用されました。遺伝子なんて、たぶん確実に意識的合理的ではないですよね。この理論をそういう風に使えるのはどうやってなのか、教えてもらえませんか。
Maynard Smith
そうですね。私はゲーム理論を植物の生長とか、ウイルスなんかに使ってきました。だから理性に全く関係がないというのは全く正しいです。古典的なゲーム理論研究者、ギャンブルといったことの経済的行動についての考え方としてゲーム理論を発展させたフォン・ノイマンなどの人々から借用したのはですね、数式の書き方くらいなもんで、ほかにはあんまりたいしたものはありません。利得行列というアイデアはどうかな。私はこれをしてあなたはそれをする、それで報酬を得るというやつです。人間活動の場合には報酬というのはなんらかの経済的な利益です。進化生物学では報酬は適応度の変化、つまり子孫の数の変化として表されます。しかしまあ借用したのは数式でして、内容ではなかったですね。
Wright
でも遺伝子とか植物について研究しているときでも、この場合合理的なプレイヤーならどうするか、と聞くのは意味のあることですよね。そういうことから何か自然淘汰に関するが見えてくると思うんです。自然淘汰が何をしているのか、それから自然淘汰を創り出した実体がどんなものであるのか、そうしたものが見えてくると思うんです。
Maynard Smith
そのとおりですね。自然淘汰は、これは何のためにあるんだ? と言えるような構造であり物体であり行動をつくりあげるということをしています。工業製品にするときと全く同じ質問を鳥の翼についてたずねることはできます。でも工業製品の場合は、デザイナーはなんでこういう風に設計したんだろう? と質問するとおもいますが、鳥の翼の場合は、どうして自然淘汰がそれをそういう風にしたのか? と問うことになります。まあでも思考回路は全く一緒です。自然淘汰もデザインも本質的には同じ結果をもたらします。
Wright
自然淘汰はデザインのプロセスだけれどもそれは意識的におこなわれているんではないんだということですね。
Maynard Smith
その通り。
Wright
ゲーム理論から派生したもんだと思いますけど、頻度依存淘汰という概念を発明されたのでも有名ですよね。これどういうものでしょうか。
Maynard Smith
んー、頻度依存淘汰というのは単純で、ある特徴、表現型への淘汰というのはその特徴が個体群にどれくらい頻繁か、ということに依存しているというアイデアです。個体群内でありふれた特徴というのはあんまりうまいこといかない、とか、珍しいものはうまいこといく、というのはよくあります。
Wright
たとえばどんなものですか?
Maynard Smith
古典的な例はちょっと難しいですよ。自然淘汰的な観点から見て、息子を持つのと娘をもつのと、どっちが得をするでしょうか? ここでは、できるだけ多くの孫を作りたい、という前提があります。で、女と男の数が同じだとしたときには息子を持とうが娘を持とうが違いはない。平均すれば男も女も同じだけの子供を持つことができるからです。実際にはどうかということじゃなくて、期待値、平均数ということですね。これは等しいはずです。
Wright
はい。
Maynard Smith
でももし1人の男に対し10人の女がいるということになると、これは息子を持ったほうが得です。でも逆の場合には娘のほうが得、という風にどっちか稀なほうが多くの子供を持つことになります。このことはゲーム理論を考えつく前にはできあがってました。R.A. 少なくともフィッシャーまでさかのぼります。それで、実際上はもちろん男も女も同数になり、これは安定状態です。
Wright
その過程は自己安定化する。
Maynard Smith
はい。
Wright
まれであればあるほど、自分自身のコピーをつくることに価値が出てくるということですね。この頻度依存淘汰の適用例にはハト・タカゲームというやつもありますね。そこでは二つの行動戦略がきめられますね。一つは攻撃的、積極的なものでもう一つは受動的という。
Maynard Smith
そのとおり。
Wright
たとえば、ある鳥の一種では対立状態になったとき、降伏・撤退してずっとひどくなるのを避けようとする性格の個体というのがあって、それとは別に攻撃的で、自らのぞんで対立しようとする性格のものがいる。それでこういう状態は理論的には安定化していく、とあなたは示されたんですよね。
Maynard Smith
そうです、そうです。もともと考えてたのは、ある意味そういうことだったんです。学生の頃の話ですが、学生といっても子供じゃなくて。もともとエンジニアで、大戦が終わって戻ってきたときに28歳ごろですけど、動物学を学びだしました。そのとき、動物が争いを解決するときに、暴力に発展しないでディスプレー行動などで済ませるのはどうしてなのか。理由はそうしないで暴力で解決すると動物は殺されることになる。これは種にとってよくないだろう、と教えられました。でも学生だったその頃でもそういう考え方はゴミだというのはわかっていました。種のためによくない、という主張はまったく話にならないのですが、そのことに疑問を持ちました。それから15年くらいしてから、研究休暇をとってシカゴに行ったんです。それで、シカゴにいる間ににこの問題を考えようと思ったんです。15年も頭にひっかかって離れなかったこの問題をやってやろう。それでゲーム理論の文献を読んでみよう、と思ったんです。それまではゲーム理論のことはよく知りませんでした。名前を聞いたことがあったくらいで、何かを呼んだということはありませんでした。ゲーム理論というのは経済学者が、敵対状態について話をするのに考え出したものだ、というのは知ってたので、これが何かの役に立つかも、と思ったんですね。それでさっきも言いましたがゲーム理論から数学的な記述法を取り出してきて、問題についての思考法としてのタカハトゲームなんかは自分で考え出しました。現実世界に当てはめるのは単純すぎますけど、モデルというのは大抵単純すぎるくらいのところから始まるものです。それでも思考法というツールとして使うことができます。