キャロル:かたちの起源

はじめに

月一更新失敗。。。


今回はショーン・B・キャロルによる「かたちの起源:リサイクルされ目的を変えて、おどろくほど多様な生物の胚発生をコントロールしている古い遺伝子について」
http://findarticles.com/p/articles/mi_m1134/is_9_114/ai_n15855378/print
です。日本語の本もあるのですが、高いので読んでません 笑

しかしエボデボってぱっとしない名前だなあと思います。英語だと Evo Devo でそれほどでもないんですが。

ショーン・B・キャロル「かたちの起源」

野蛮人が船のような自分の理解をはるかに超えるものを見るのと同じ意味で、わたしたちが生物を見なくなったとき。わたしたちが自然の作り上げたものすべてに歴史があるのだと考えたとき。偉大な機会の発明が、労働、経験、理論と、それに何人もの労働者の失敗のたまものだ、と考えるのとほとんど同じ意味で、どんな複雑な構造や本能も、持ち主にとって便利な、さまざまな仕組みのたまものだと考えるとき。こういうふうに生き物を見たときこそ、経験的に言って、自然史の研究ははるかにずっとおもしろいものになるのだ。――チャールズ・ダーウィン種の起源


ダーウィンは生物学の歴史上最も重要な本を締めくくるのに、彼による自然への新たなビジョンがいかに壮大なのか、見てほしいという言葉を送っている。それは、どのようにして「はじめは非常に単純なものから、かつてなく美しくすばらしい形態が無限に進化してきて、進化し続けているのか」というビジョンだ。20世紀中に、いろんな生物学者−−遺伝学者、古生物学者分類学者−−がこのビジョンを検証し押し広げてきた。こうした成果により、いわゆる現代統合説が生まれた。これは過去50年の進化生物学を導いてきた基本原理を組み合わせたものだ。


でも、「現代」それに「統合」という言葉とはうらはらに、重要な要素が進化論には欠けていた。生物学者は自信を持って、形態が変わること、自然淘汰が変化の大きな力になっていることを説明することはできた。でもどうやってこの変化が生まれるのかについては何もいえなかったんだ。からだや器官がどうやって変化するのか、それに新たな構造はどこからやってくるのか、という疑問は完全に闇の中だった。


生物学者たちは今はもう、行きかう船を遠くから眺めている野蛮人じゃなくなった。これまでの20年間で生物学者は、動物や植物の形態や複雑な構造がどうやってあらわれ進化するのかについて、革命的に新しい理解をもつようになった。この理解の鍵になるのは生物の発生だ。つまり、たった一つの細胞が、複雑で何十億、何兆もの細胞をもつ生物になっていく過程のことだ。それに発生は進化と密接にリンクしている。動物の胚が成長するにつれて、胚はからだの器官の数、位置、大きさ、配色など、無限の「判断」を下さなければならない。発生過程で起こるこうした判断の無限の組み合わせにより、昔も今も動物のかたちに豊かな多様性が生まれてきた。


この進化発生生物学(Evolution of Development)、略してエボデボの発展のおかげで生物学者は、生物のかたちの外見的な美しさだけでなく、その多様性を形作るメカニズムに目を向けることができるようになった。とくに動物のかたちについてこれまでにわかったてきたことの多くはとてもショッキングで予想外のことだったので、進化の仕組みについての考え方を大きく広げ、変更してきた。切り返す刀でエボデボは、複雑な構造や生物が自然淘汰から生まれたと考えない連中の古臭いレトリックに対して決定的な打撃をあたえている。


ダーウィンは発生学が進化を理解する鍵を握っているといつも主張してきた。「種の起源」の出版直後に送られたアメリカ人植物学者アサ・グレイへの手紙の中で、ダーウィンは嘆いている。「わたしにとって、発生学はかたちが変化していくことを支持している事実のなかでは、何よりも重要なたった一つの分野なのに、わたしの知る限り読んでくれた人でそのことをちらりとも言ってくれた人はいない」 でも、たった一つの卵から完全な個体がどうやって生まれるのかは、生物学全体で最難関のなぞとしてずっとそびえ続けてきた。


多くの生物学者が発生は絶望的に複雑だ、とあきらめてきた。動物一つ一つの発生について、それぞれ独自の説明が必要だと考えられた。遺伝学のはじまりとともに、生物学者は遺伝子が発生と進化両方のなぞの中心にあるはずだ、と考えるようになった。結局のところ、チョウがチョウのように見え、ゾウがゾウのように見え、ぼくらがぼくらのように見えるのは、遺伝子があるからだ。外見上の類似といった多くの属性は、確実にそれぞれの種が持っている遺伝子までさかのぼれるはずだ。


こうして遺伝子に注目が集まったけれど、問題があった。比較的最近になるまで、何千とある遺伝子のうち、どれが動物をかたちづくってきたのか、だれにもわからなかったんだ。この袋小路は小さなショウジョウバエによってついに破られた。遺伝学者たちにより、比較的少数の遺伝子がショウジョウバエのからだのパターンや器官の形成を制御しているということを解明するための方法が開発されたんだ。


望遠鏡の発明が天文学に革命をもたらしたように、テクノロジーの革新が発生生物学の概念の現状打破にとって何よりも重要だった。遺伝子を複製したり操作するための新技術や、新たなタイプの顕微鏡により、からだを作り上げる遺伝子がどのように働いているのかをその場で見ることができるようになった。胚のなかの化学変化が外見的な構造があらわれるずっと前にビジュアル化することができるようになった。このおかげで研究者は体節、手足や脳がかたちづくられるとき、一番最初に何が起こっているのかを直接観察することができるようになったんだ。


ウジ虫がどうやって発達していくのかはあんまり興味をひかないだろうな、というのはわかっている。でもこのことが、人間が気にしてるもっとすごい生き物についても教えてくれるんだ。たとえば哺乳類、ほかの動物たち、それにぼくら人間も? 実際には二十年前に一般に考えられていたのは、−−毛がふさふさの動物を研究する人と虫を研究する人の間の文化がかなり違うということもあって−−発生法則は異なるかたちをした生き物では大きく違っているだろう、というものだった。


たとえばショウジョウバエの器官は、ぼくらの器官と共通点があまりないように思えた。ぼくらに触覚や羽はないしね。ぼくらは骨が入っている二本の長い足で歩く。外骨格で固められた六本の小さなやつじゃない。ぼくらの目は二つで、可動式のカメラ型だ。固定式の虫の複眼じゃない。血液は四部屋に分かれた心臓のポンプから、動脈と静脈でできた閉じた循環器系をめぐる。体腔の中をただぱちゃぱちゃ跳ね回っているんじゃない。こうした構造やすがたの違いを見れば、ハエを研究したからといってぼくら自身の器官がかたちづくられるのかわかりっこない、と結論づけてもよさそうに思える。でもそれは完全に間違いなんだ。


エボデボがもたらした最初でたぶん最大の教訓は、見た目は大嘘をつくことがある、というものだ。ほとんどだれもその後明らかになる事実が発見されるとは思ってもいなかった。ショウジョウバエのからだを作り上げ器官をかたちづくる遺伝子として最初に同定された遺伝子のほとんどには、人間を含むほとんどの哺乳類で同じような機能を果たすまったく同型の遺伝子があったんだ。エボデボ革命で放たれた最初の砲撃から、見かけ上大きな違いがあっても、ほとんどすべての動物はからだをつくりあげる「ツールキット」遺伝子を共通して持っている、ということが明らかになった。この発見−−実際には数々の発見−−により、動物が互いに異なっているのはどうしてかということについての昔の考えの多くが吹き飛んでしまうことになった。


たとえば、眼の起源は進化生物学の歴史を通して多くの関心を集めてきた。ダーウィンは「種の起源」でかなりの労力を費やして、どうやってそうした「究極的に完成した器官」が自然淘汰により進化できたのかを説明している。ダーウィン以来生物学者たちにとってなぞでありつづけ興味をひいてきたのは、動物界で眼の種類にバラエティがあったことだ。ぼくらもほかの脊椎動物も一枚レンズのカメラ型の眼を持っている。ハエやカニなど節足動物は複眼という、ときには何百もの個眼とよばれるユニットのかたまりが視覚情報を集める。ぼくらと近縁ではないけれど、タコやイカの眼もカメラ型だ。でもタコやイカに近縁のアサリやホタテには三種類の眼がある。カメラ型、複眼、それに反射型だ。この動物界全体にわたる眼の豊かな多様性とつぎはぎ模様のような分布は、一世紀以上もの間、さまざまな動物たちが自分たち独自に眼を発明してきたからだ、と考えられていた。進化生物学者の故エルンスト・マイヤーと同僚の L. フォン=サルヴィニ=プローヴェンは、細胞的特長を根拠に、眼は40から65回ほど独立して発明されたてきた、と言っていた。エボデボでの発見により、この一般的な考えは一からの再考を迫られている。


スイス、バーゼル大学のヴァルター・ゲーリングとその仲間は1994年に、ショウジョウバエの眼をつくるのに必要な遺伝子が人間とマウスの目を作るのに必要な遺伝子とまったくの同型だということを発見した。この遺伝子は、Pax-6 と呼ばれ、その後イカを含む多くの動物でも目をつくる役割を果たしていることが明らかになった。こうした発見により、構造的にも光学的特性としても大きく違っているにもかかわらず、異なる眼の進化の材料として共通する遺伝子が存在してきた、と考えられる。


マイヤーはこう書いている。

ある機能が必要とされてそこにたった一つの効果的な解決法があるとすれば、まったく異なる遺伝子群によってまったく同じ解決法が発明されるだろう。これは達成にいたる経路がどんなに異なっていてもそうなる。「すべての道はローマへ通ず」ということわざは日々の出来事と同じで進化にも当てはまるのだ


でもマイヤーの見方は正しくない。現代統合説を打ち立てた人たちは、まったく異なる種のゲノムはまったく異なるだろうと予想していた。これだけ違うかたちが似たような遺伝子セットでつくられうるとは考えもしなかった。スティーブン・ジェイ・グールドは彼の記念碑的な著作、「進化論の構造」で、共通のからだをつくりあげる遺伝子の予想外の発見が、現代統合説の中心となる教えをひっくり返してしまうと考えている。


ローマへ通じる道、別の言い方で言うと、眼といった複雑な構造へ至る進化上の道筋は、生物学者が昔考えていたほどには多くなかったんだ。自然淘汰は眼を何度も一からつくりあげてはこなかった。そうじゃなくて、眼をつくりあげるための材料には共通の遺伝子があって、さまざまなタイプの眼で、光受容細胞や光感知たんぱく質といった、Pax-6遺伝子にずっと制御されてきた部品が組み合わされているんだ。


ツールキット遺伝子はほかにも同定されていて、手足や心臓といったさまざまな種類の構造をつくりあげるのにかかわっている。遺伝子ツールキットの部品は、枝分かれした動物界の枝のほとんどで見つかるから、こうした部品は少なくともそうした枝分かれの前の共通祖先までさかのぼれるはずだ。このことからツールキットの起源は、はるかかなた、五億年以上前の過去、大型で複雑な動物のからだの出現のしるしとなるカンブリア爆発よりも前になるんじゃないだろうか。


それからほかにもちょっと直感に反するような洞察がエボデボから得られる。動物の複雑さや多様性が増えていくのは新しい遺伝子が進化するからだ、と思われているかもしれない。でもほとんどのからだをつくりあげる遺伝子は、ほとんどの種類の動物のボディプランや複雑な器官があらわれる前からずっとそこにあったということがわかっているんだ。


こうした古い遺伝子ツールキットの発見はわくわくするし実りも多いけれど、それだけじゃなくて新たな難問もそこから生み出す。からだをつくりあげる遺伝子のセットが動物間でそんなに似ているというのなら、こんなにかたちが違っているのはどうしてなんだろう?


さまざまな動物の研究から、この多様性はツールキットの中身から生まれたというよりは、ツールキットがどうやって使われているか、というところから生まれた、ということが明らかになっている。動物のからだの様式が多様なのは、同じ遺伝子ツールキットが別の方法で使われるからだ。たとえば、脊椎動物(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類)のような大型の複雑な動物でもっともはっきりした特長に、からだが部品の繰り返しでできている、というものがある。体節は節足動物の基本ブロックだし、椎骨は背骨の基本ブロックだ。どっちの場合でも、こうした基本ブロックの一部から重要な構造が生まれる。節足動物の付属肢は体節から生えてくるし、脊椎動物の肋骨は椎骨から伸びている。


こうした動物のからだの大規模な進化における重要ななテーマに、いくつのどんな種類の部品が繰り返されるのか、というものがある。節足動物の生物綱[昆虫とか甲殻「類」とか]を区別するのは、体節の数と付属肢の数と種類という主要な特徴によるものだ。同じように、脊椎動物の間でも椎骨の数や種類(頸椎、胸椎、腰椎、仙椎)がまったく異なっている。


節足動物脊椎動物の発生の広範囲の研究から、こうした主要な特徴が Hox遺伝子と呼ばれるツールキット遺伝子のセットに支配されているということが明らかになった。どちらのグループの動物でも一般に Hox遺伝子は、からだの中心軸に沿っている繰り返し構造の数とかたちを決定する。一つ一つの Hox遺伝子はこのからだの中心軸に沿った特定の領域がどうなるのかを制御していて、どこにさまざまな構造がかたちづくられるかを決定する。鳥類、カエル、哺乳類、ヘビ、昆虫、エビ、クモなどについての多くの研究結果から、脊椎動物でも節足動物でも、Hox遺伝子が発現する胚の場所がシフトすることが大きな違いを生み出すということが検証されている。


こうしたシフトから、たとえばヘビが、ほかの脊椎動物とは対照的に、何百もの肋骨を持った椎骨を持ち、首がまったくないというユニークなからだをどうやってつくるのかが説明される。それになぜ昆虫に六本しか足がなく、ほかの節足動物が八本以上持っているのかもこのシフトから説明できる。エボデボという新しいイメージは、こうした動物の発生がいつどうやって異なるようになったのか、ピンポイントで探し当てることができる。Hox遺伝子の研究から、動物たちは一から独立に発明されたのではなく、古いボディプランから変化して出来上がったのだということが、まったく新しく原理的なレベルで明らかにされているんだ。


ツールキット遺伝子の発現が発生中にシフトすることから、動物のかたちの大規模な違いだけではなく、近縁種間のちがいや、同じ種の異なる個体群間のちがいさえも説明される。たとえばイトヨという魚は、北アメリカ北部の多くの湖で二種類のかたちのものが見られる。一つはとげが短く、浅い場所の低層に住むものだ。もう一つはとげが長く、開放水域に住んでいる。この二種類のかたちはこうした湖で、およそ1万年前の最終氷期以降急速に進化してきた。この魚の腹びれのとげの長さは捕食されるという淘汰圧がかかっている。開放水域では長いとげがあるおかげでイトヨは大型捕食者に飲み込まれずにすむ。でも湖の低層では長い腹びれのとげは弱点になる。ヤゴがとげをつかんで若いイトヨを食べてしまうからだ。


このとげはイトヨの腹びれの骨の一部だ。低層性の個体群の短いとげは、胚の間に腹びれのもとの発達が縮小されたことにさかのぼることができる。スタンフォード大学の遺伝学者デイヴィッド・キングスリーとバンクーバーUBCの生物学者ドルフ・シュリューターと彼らの協力者たちにより、短いとげのイトヨのとげの長さの変化が単一のツールキット遺伝子にまでさかのぼれることが明らかにされた。この遺伝子の発現は変更されていて、このため腹びれのもとや、ひいては腹びれの骨[骨盤]が小さくなっている。この研究から、DNAの変化が胚発生の特定のイベントにかかわっていることがわかった。そして胚発生から、種の生態に直接影響をあたえる、からだのかたちの主要な適応変化を生まれるんだ。


小さなイトヨからの洞察はこの魚に固有の自然史をはるかに超える。腹びれは進化的に言って脊椎動物の後肢の先駆体だ。後肢が小さくなることは脊椎動物では全然珍しくはない。二つの哺乳類の仲間、クジラ目とマナティーで、陸上で生活していた祖先から進化していくにつれて、後肢は大きさが大幅に小さくなってしまった。同じように、足なしトカゲは何度も進化してきている。イトヨの研究は、どのようにして自然淘汰により動物の骨格が比較的短い時間で変化しうるのかを明らかにした。


進化によりからだの繰り返し構造の数や種類がどう変化しうるのか明らかにするだけでなく、新奇の構造や新たなパターンがどう進化するのかということにもエボデボは光を当てる。たとえば鳥の羽は、ツールキット遺伝子の発現様式の変化から生まれた新奇の属性についてのはっきりとした例だ。四本足の脊椎動物の手足もそうだし、昆虫の羽もそうだし、チョウの羽の幾何学的な配色パターンもそうだ。昆虫や鳥が「羽」遺伝子を発明した、とか、脊椎動物が「手」遺伝子、「指」遺伝子を発明したと想像するのは簡単だ。でもそんな遺伝子があらわれたことを示す証拠は何もない。そうじゃなくて新奇の属性というのは、古い遺伝子に新しい技を伝授するというものらしい。


ここから見えてくるものは、人類の進化を理解するうえで特に重要だ。ぼくら人間は動物界でなんらかのユニークな立場にあると長い間考えられてきた。たしかにぼくらは遺伝子をもっとも多くあたえられた種族には違いない。でも現実には、分子生物学者が人間やほかの種のゲノム配列作業から知っているように、人類の遺伝子はその数も種類も、チンパンジーやマウス、それどころかすべての脊椎動物が持っている遺伝子ととてもよく似ているんだ。二足歩行、言語、発話といった人間の特性が新奇の遺伝子から説明がつくとは誰も考えていないはずだ。ぼくらの「古い」遺伝子、霊長類、哺乳類、脊椎動物、それにもっと離れた種にも見られる遺伝子が、どうやって新しい使い道を見つけたのかを理解することから説明される、という方が可能性が高そうだ。


ダーウィンはどうやって複雑な構造つまり「仕組み」が出現したのかを思い描くことが人間には難しい、ということをとてもよくわかっていた。実際故スティーブン・ジェイ・グールドやミネアポリスミネソタ大学の生物学者ランディ・ムーアが指摘しているように、ダーウィンが「仕組み」という言葉を選び「種の起源」で15回も使ったのは、意図的なもので、レトリックの効果をねらったためだった。この言葉は、ウィリアム・ペイリー神父が1802年に書いた「自然の神学」で使われた用語を思い起こさせた。ペイリーはある目的のために自然界で「仕組み」がかたちづくられるのは、神のデザインという啓示による、と考えた。

仕組みを生み出すためには考案者が必要だったし、デザインにはデザイナーが必要だった。……仕組みが示されることによってのみ、神性の存在、作用、知恵が合理性をもった被造物に対して証明されうるのだ。


ペイリーの主張はいま進化学の新たな「オルタナティブ」としてもてはやされている「インテリジェント・デザイン」というアイデアのエッセンスだ。ダーウィンはペイリーの本を崇拝していて、一部はほとんど暗記している、とまで言っている。ダーウィンはそれから「種の起源」での自分の主張をペイリーを直接的に否定するものとしてつくりあげた。ペイリーが眼のデザインを望遠鏡のデザインと比較したのに対し、ダーウィンはそうした仕組みが自然淘汰によって、神聖な考案者が介入しなくても出現するということを説明した。


でも、それがどれだけ聡明だろうと、ダーウィンの説明は莫大な時間をかけておこった自然淘汰を推定することに頼っていた。ダーウィンには眼の発生やその詳しい進化の歴史についての基本的なことがらを知ることはできなかったんだ。ツールキット遺伝子という新たな知見からそうした複雑な構造がどうつくりあげられるのかが明らかになる。エボデボによって、こうしたどこにでもあって観察可能で実験可能なプロセスと長期にわたる進化上の変化というプロセスをつなぐことができる。ある種から次の種へつなげていく方向性だけではなく、ボディプランのつくりのように、分類学的に大きな枝で見られる主要な違いをかたちづくってきた方向性からも、複雑なかたちや構造がどう進化するのかを、エボデボは見せてくれるんだ。


現代の進化統合説の主な教えは、種のレベルを超えたかたちの進化(「大進化」)は種の中の個体群のレベルで起こっているプロセス(「小進化」)から推定可能だというものだ。現代進化統合説が大進化を説明できるのか疑問に思っている人にとって、エボデボからの新しい洞察からこの疑問が解けるはずだ。進化発生生物学のレンズを通して、生物学者は外見的なかたちを超えて、そうしたかたちをつくりあげたまさにそのプロセスを見ることがようやくできるようになった。どのように自然界の無限のかたちがこれまでも、これからも進化してきているのか、というイメージを完成することができるようになったんだ。