ドーキンス:ヴィークルを葬る

はじめに


某所で話題の群淘汰および Sober & Wilson に関してドーキンスがコメントしているのを見つけたので訳しました。もう少しこなれた訳にするとは思いますがとりあえず。


なお、批判の対象となっている論文は
http://www.bbsonline.org/documents/a/00/00/04/60/bbs00000460-00/bbs.wilson.html
より読むことができます。

リチャード・ドーキンス「ヴィークルを葬る」Burying the Vehicle by Richard Dawkins


http://www.simonyi.ox.ac.uk/dawkins/WorldOfDawkins-archive/Dawkins/Work/Articles/1994burying_the_vehicle.shtml

Published in Behavioral and Brain Sciences, Vol.17, No.4, pp.616-617 (1994). Remarks on an earlier article by Elliot Sober and David Sloan Wilson, who made a more extended argument in their recent book Unto Others : The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior


WilsonとSober の情熱が正真正銘だということは明らかだ。彼らのはっきりとした真摯な説明は歓迎するし、そのレトリックもついつい楽しんでしまった。彼らは熱狂的で、ほかの人間が自分たちに賛成してくれないことに戸惑っている。これは同情できる。わたしも彼らが支持している、完全にふざけた脳みそからっぽの天邪鬼だと思っている立場には戸惑わされ続けているから。わたしたちは本当に多くのことについて同意している。仲良くやっていけるほんの手前まで来ているのだ。自己複製子とヴィークル(乗り物)の区別という根本的な重要性はどちらも認めているし、遺伝子こそが自己複製子であり、生物個体や集団ではないということにも同意している。群淘汰論争はヴィークルとしての群に関する論争のはずで、ここでは答えが違ってくるということも簡単に同意できるはずだ。しかし、これほどまでに論理的に進めてこれたのに、彼らの言うヴィークルとしての群淘汰が、AlleeやEmersonたちが無批判に利他行動を説明するのに用いたタイプの群淘汰と、肯定的な類似性を持っているかのように装って、肝心な部分をぶち壊しにしてしまうのはなぜなのだろうか。WilsonとSoberはこうした群淘汰論をナイーブだとしていて、それは正しい。しかし、そこから進んでいってこのナイーブな群淘汰論を再紹介している。否定されるべきナイーブな理論を再紹介するのはやめていただきたいものである。


生物個体が評価されすぎだということにも同意がある。「延長された表現型」は、個体を支持するのではなく、個体に対する攻撃と考えられているし、このことはWisonやSoberにとって心地よく聞こえるはずである。ヴィークルという名称を考案したのはそれを称揚するためではなく葬り去るためだった。そういうわけで逆説的ながら、ヴィークルという名前はHullの名づけた相互作用子よりもいい名称になっている。相互作用子では(ごちゃごちゃした)真実に近くなりすぎているから、それを決定的に葬り去るためにはうまくはたらかないのだ。


淘汰により選ばれるのはDNA分子や、おそらくは文化遺伝単位といった自己複製子だけである。自己複製子はその表現型効果により判断される。表現型効果がヴィークル内で他の自己複製子の表現型効果とセットになっていることもあるだろう。こうしたヴィークルは生物体と認識されるものであることが多いが、必ずしもそうである必要はない。ヴィークルの定義ではないのだ。ヴィークルにこれというべきものがあったことはないのだ。ダーウィニズムは、表現型効果(相互作用子)が散漫で、多レベルにわたり、一貫性がなくてヴィークルと呼ぶに値しないような自己複製子にはたらいてもいいのだ。延長された表現型にはビーバーのダムのように無生物の加工物が含まれている。表現型効果が他の個体や種で発現するものさえ含まれうるのだ。離散的なヴィークルの存在こそそのものが説明を必要とされているが、これは性の存在が説明を必要とされているのと同じ意味だ。よい説明があることには疑いがなく、「延長された表現型」でも三つの説明を述べておいた。しかしヴィークルは本質的なものではなく、これに関しては他の説明が排除されるべきだというわけでもない。「この状況におけるヴィークルは何なのだろう」と質問する権利があると考えるべきではないのだ。


モールとラッティのようにスイレンの葉まで水上を調子を合わせて協力して移動するコオロギたちはすてきな話ではある。しかしこの二匹が淘汰のヴィークルであると主張するにはまったく役に立たない。この場合淘汰のヴィークルは存在しないのだ。この例はヴィークルの概念を葬り去るすばらしい例である。自然淘汰は環境内で繁栄する自己複製子に好意的にはたらく。自己複製子の環境には外部世界も含まれるが、もっとも重要なのは、同じ生物体や他の生物体に存在する他の自己複製子、つまり他の遺伝子、それに表現型の産物も含まれるということである。他に協力するコオロギが存在するとき、コオロギの協力遺伝子は繁栄する。この主張は真実であり啓蒙的であるが、それは雪があるときに分厚い毛皮の遺伝子が繁栄するということと同じ意味なのだ。雪と同じで、それぞれのコオロギは他方の遺伝子にとっては環境の一部なのである。


WilsonとSoberを、雪が淘汰されるものに含めてしまっていると非難することはアンフェアかもしれない。わたしの世界観からすれば、彼らのやっていることというのはそういうことなのだが。しかしWilsonとSoberに以下のことに挑戦してもらうというのはほんの少ししかアンフェアじゃないはずだ。イチジクは受粉のためイチジクバチに強制的に依存しており、イチジクバチは食料のためイチジクの胚珠に強制的に依存している。イチジクの種それぞれには固有のイチジクバチが存在し、片方が存在しなければどちらも生存できない。ここで根底にあるゲームはほぼ確実に2匹の協調するコオロギで行われたものと同型である。WilsonとSoberは{イチジク+ハチ}がヴィークルであると言わなければ矛盾することになる。たぶんそう言うだろう。しかしここで、ある種のイチジクがある特定のサルに依存して、糞により種子を移動させてもらっており、一方このサルが食料のために同じイチジクに完全に依存している、と考えてみよう。ここでは{イチジク+サル}がヴィークルになる。となるとベン図が重なってしまうという悪夢になってしまうが、これはそもそもものごとを離散的なヴィークルに詰め込もうとしたときにだけ起こる。背理法で言うなら、形態や行動が何世代にもわたり相互の軍拡競争によりかたちづくられてきた、スペシャリストの捕食者およびそれに対する単一の被捕食者について、この一対の生物たちが連結ヴィークルを構成しているのだと言ってしまうことにWilsonとSoberは危険なほど近づいてしまっていないだろうか。


自然淘汰は、自己複製子の能力が他の自己複製子やその産物を含む環境で生存するように自己複製子を選んでいる。自己複製子同士の協力が強く好まれ、ヴィークルと呼ばれるに十分なくらい団結した単位が出現することもある。しかしヴィークルが特定のレベルで出現する可能性があるからというだけでは、ヴィークルが存在すると想定する権利はどこにもないし、わたしの考えでは通常ヴィークルはほとんどのレベルにおいては存在していないという証拠がある。「この状況におけるヴィークルは何なのか」という問いは「エベレスト山の目的はなんなのか」という問いと同じ程度にしか正当ではない。そうではなくて、「この状況においてヴィークルが存在するのか、もし存在するとすればなぜなのか」と問うべきなのである。