Beyond Demonic Memes その3

Beyond Demonic Memes(悪魔ミーム説をこえて)その3です。あと1,2エントリでおわりです。
ですます調にすると、ウィルソンの説教くささがよくわかります。

デイヴィッド・スローン・ウィルソン:悪魔ミーム説をこえて--ドーキンスが宗教について間違っている理由(その3)

科学の教条主義


後から考えると、なぜそれほどまで熱心にウィリアムズやドーキンスといった進化学者が集団淘汰を否定し、完全に自己利益に基づいた進化観を発展させたのかを理解するのは困難です。ウィリアムズは『適応と自然淘汰』を次の文で締めくくっています。「私はこれが正しいあり方なのだと信じている」。1982年の『延長された表現型』でドーキンスはこの時代を次のように回想しています。

ダーウィン以来これまで、彼の個体中心的な立場は驚くべきことに否定され、無意識の集団淘汰主義にだらしなくそれていってしまった…(中略)…われわれは我慢強く反撃したが、イエズス会並みに洗練され献身的なネオ集団淘汰主義者の後衛からの狙い撃ちに悩まされてきた。しかしついにダーウィンの立場、わたしが「利己的な個体」という項目によって特徴付けている立場を取り戻すことができたのだ。


この文章には、神性(=ダーウィン)を私物化するといった、原理主義者のレトリックの特徴すべてがうかがえます。ダーウィンが最初の集団淘汰主義者だったことはどうでもいいのです。さらに言うと、『利己的な遺伝子』とは違って、ドーキンスは『延長された表現型』を一般大衆ではなく科学者たちに向けて書いたのです。


抑圧的な社会状況下にあったため認識することは難しかったのですが、実際には集団淘汰に対する反論は『適応と自然淘汰』が出版された直後からほころびはじめています。そもそも遺伝子を「自己複製子」や「淘汰の基本単位」と呼ぶことは、集団淘汰矛盾しないのです。問題はつねに、遺伝子が集団全体に利する形で、集団内では淘汰上不利になるにも関わらず進化することはありうるのか、ということだったのです。これがありうるのなら、集団間の淘汰で好まれる遺伝子は集団内の淘汰で好まれる遺伝子に取って代わることになります。集団遺伝学の用語で言えば、これは平均効果が最大である、ということです。進化するという理由だけで遺伝子を利己的であると分類しなおしても何も生み出しません。進化を「遺伝子から見る」という行為はある点からは示唆に富んでいますが、集団淘汰に対する主張としては、進化研究の歴史上でもっとも意味のないものだったと言えます。リンゴとオレンジを比較するような例の最たるものなのです。


延長された表現型という概念についても同じことが言えます。これは遺伝子が生物個体の体を延長した効果を持つというものです。延長された表現型の例には鳥類の巣やビーバーのダムなどがあります。しかしこの2つの例には違いがあります。鳥の巣はそれを造った個体にしか利益をもたらしませんが、ビーバーのダムは池の中のすべてのビーバーに、ダム造りに貢献しなかった個体に対しても利益をもたらすのです。集団内の淘汰の問題はダムの例にも存在していて、延長された表現型の概念があってもこの問題を解くことはできません。リンゴとオレンジの例が増えるだけなのです。

集団淘汰の復活


集団淘汰が1960年代に否定されて以来の40年間で多くの出来事がありました。ナイーブな集団主義は現在でも間違いで避けるべきものですが、集団間の淘汰が頭から否定されることはなくなりました。集団淘汰の主張は他の主要な進化仮説と同様ケースバイケースで評価されなければなりません。集団淘汰の実証はトップレベルの科学雑誌に定期的に掲載されています。


一例を挙げると、2006年7月6日付けのNature掲載の論文で、Benjamin Kerrを筆頭とする微生物学者たちは大腸菌とその捕食ウイルス(ファージ)を96ウェル(穴)のプレートで培養したました。このプレートは自動化学分析でよく使われるものです。それぞれのウェルには捕食者と獲物の集団が入れられました。ウェル内では自然淘汰によりもっとも貪欲なウイルス株が好まれましたが、こうした株は獲物となる大腸菌を駆逐してしまい、その結果自身も滅亡する傾向にありました。より控えめなウイルス株はそれぞれのウェル内にいる貪欲な株に取って代わられる危険はありましたが、集団としては長く生き残り、他のウェルに進出する可能性も高かったのです。ウェル間の移住はロボット制御のピペットにより行われました。生物学的に起こりうる移住率があれば、集団内では淘汰上不利であっても、控えめなウイルス株が個体群全体で生き残ることがは可能だったわけです。


もうひとつの例は2006年12月8日付けのScience誌に掲載されました。ここでは経済学者のSamuel Bowlesにより、集団間の淘汰がわれわれヒトの利他性の遺伝進化をうながすほどに強力であるという試算がなされています。これはまさしくダーウィンが予見したことです。他にもたくさんの例があり、E.O.ウィルソンとわたしは近々公表されるレビュー論文で要約しています。こうした例をドーキンスは完全に無視し、集団内では利他性が淘汰上不利であるため集団間の淘汰には対処不能な問題が生じるというお題目を唱え続けています。

集団としての個体


集団淘汰は重要な進化の推進力になりうるだけでなく、進化の推進力として支配的なものにさえなりえます。進化生物学の発展におけるもっとも重要なものの1つに、大きな節目(major transition)という概念があります。これによると、進化は小さな突然変異により起こるだけでなく、社会集団や複数の種からなるコミュニティからも起こり、これが統合されてそれ自体が高次のレベルの生物体にもなるのです。細胞生物学者のリン・マーギュリスはこの概念を1970年代に提唱し、真核細胞はバクテリア細胞の共生コミュニティから進化したと説明しました。この概念はその後他の大きな節目の説明にも広げられ、生命の起源は協力的に分子が反応するコミュニティの結果として説明されたり、多細胞生命体や社会昆虫のコロニーにも適用されたりしました。


いずれの例でも、淘汰のレベル間のバランスは固定的なものではなく、それ自体が進化しえます。集団内の淘汰が押さえ込まれたときに大きな節目が起こります。利己的な要素が自分の集団内の他の要素を犠牲にして進化することが難しくなるのです。集団間の淘汰は進化の推進力として支配的になり、集団を高次の生命体へと変換していきます。皮肉にも個体主義の時代では集団を生命体と考えることはタブーでした。しかし今では生命体はその前の時代には文字通り集団だったということがわかっています。


ドーキンスは大きな節目という概念を完全に受け入れていますが、集団淘汰に対する自分の考えに修正を行う必要はないと白を切っています。もっとも重要なのは、宗教の研究にもっとも関連の深い問題を彼が取り上げようとしないことです。人間の遺伝的・文化的進化は大きな節目のもっとも新しい例であり、人間集団が人体やハチの巣と同等のものになるという可能性があるのではないでしょうか?