Beyond Demonic Memes その2

Beyond Demonic Memes(「悪魔ミーム説をこえて」)つづきです。
これで1/3くらい。

デイヴィッド・スローン・ウィルソン:悪魔ミーム説をこえて--ドーキンスが宗教について間違っている理由(その2)

リチャード・ドーキンスとスティーブン・ジェイ・グールド:奇妙な同志


今はなきハーヴァード大の生物学者、スティーブン・ジェイ・グールドが、「存在しない適応を見ている」という批判をしたのは有名です。彼は副産物のことを、スパンドレルというメタファーで表現しました。スパンドレルとは、アーチが互いに隣接する際に必ずできてしまう三角形状のスペースのことです。アーチに機能はありますが、スパンドレルにはありません。装飾用のスペースといった二次的な機能を持つことはあるかもしれませんが。グールドは、生物学者たちが適応形質について、正しい証明もなく「そうなって当然の物語」をこじつけていて、進化の副産物や非適応的な産物という可能性を見ていない、と批判しました。


グールドの言うことはもっともですが、実際に存在している適応を見ることができないという、正反対の問題には目を向けませんでした。あるサメの鼻の瘤を説明したいと思っている生物学者になったと想像してみてください。もしかしたらこれはサメの鼻が発達する過程で発生した副産物かもしれません。グールドは人間のあごについて同じように推定しています。あるいはそれは皮膚が硬化したもので、サメが砂を掘るときに形成されたものなのかもしれません。もしそうだとするとこれは適応ということになりますが、それほど複雑なものではないでしょう。あるいはこれはイボで、ウイルスが原因なのかもしれません。とすればこれはウイルスにとっての適応で、サメにとっての適応ではありません。またこれは、砂の中に隠れている獲物の微弱な電気信号を検知するための器官なのかもしれません。この場合は複雑な適応であるということになるでしょう。


生物学者にとって、複雑な適応の発見は何にもまして興奮するものです。それまで説明できなかった無数の細部が、目的を持ったシステムとしてつながりあい、解釈可能になるのです。非適応形質も複雑になるかもしれませんが、複雑な適応は、機能を持っていますから、最初から最後までの分析が可能なのです。複雑な適応が存在しているのに認識できないというのは、存在していない適応を見ているのと同じくらい大きな間違いです。精力的で地道な研究を続けることによってのみ、この問題を片付けることができるのです。グッピーの模様の進化論的研究には、何百人年もの労力が費やされたのです。


ドーキンスは適応主義の立場からグールドと論争を行いました。ドーキンスはここまでわたしが話してきたことにはすべて同意すると思います。しかし宗教については、彼は基本的には非適応主義の立場に立っています。彼によると、人が宗教にとりつかれてしまうのは、ガが炎にひきつけられてしまうのと同じことなのです。もしかしたら宗教的衝動はわれわれ祖先の時代の小さな社会集団に適応したのかもしれませんが、現代の巨大社会にではないのです。現代の宗教信仰が適応的だというのなら、それはヒトを宿主とした文化的寄生物としての信仰それ自身にとってのみ適応的なのです。人にとりつくと考えられていた古えの悪魔のように。これがドーキンスが神が妄想であるとする理由です。ドーキンスにとってもっともあり得ない可能性は集団レベルの適応仮説です。宗教とは、人間集団の利益のために、その集団を定義し、動機づけ、協調させ、取締まるものではない、と彼は断固とした主張をしています。

集団の利益のために?


宗教が集団レベルで有利だという考えに対するドーキンスの疑いを理解するためには、進化論での「集団のために」という考え方の歴史をひも解いていかねばなりません。集団が適応的になるのはそのメンバーが互いに世話をしあう場合のみなのですが、この世話というのは同一集団にいる自己中心的な個体のただ乗りに弱い場合が多くあります。幸いにも相互に助け合うことができる個体集団は助け合わない集団を打ち負かすことができます。


この論理から、「集団のための」形質には、集団間の淘汰プロセスが進化する必要があり、集団内の淘汰により崩壊する傾向があります。ダーウィンは人間の徳性や他の動物に見られる自己犠牲形質の進化について、初めてそのように考えました。残念ながら、20世紀前半の生物学者の多くはこの彼の考えを共有せず、適応は生物学的階層のすべてのレベルで進化する、と無批判に想定しました。個体のため、集団のため、種のため、生態系のために、それぞれのレベルで対応する自然淘汰のプロセスを必要としなくとも適応形質が進化すると考えたのです。集団淘汰の必要性が認識されたとき、集団間の淘汰は集団内の淘汰に打ちかつことは簡単だ、と想定されることが多くありました。これは「ナイーブな集団主義の時代」とでも呼べるもので、1960〜1970年代に終焉します。これには2冊の本、1966年のジョージ・C・ウィリアムズの『適応と自然淘汰』と1976年のリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』が大きな貢献を果たしています。


『適応と自然淘汰』で、ウィリアムズは多レベル淘汰の論理を肯定しましたたが、経験に基づいた但し書きが加えられていました。集団間の淘汰は理論上は可能であるが、現実世界においてはつねに集団内の淘汰に負けてしまう、というものです。ほぼすべての適応は個体レベルで進化したのであり、見かけ上利他的に見える行動であっても、それは自己利益の観点から説明されるに違いないというのです。この経験に基づいた主張により、「ナイーブな集団主義の時代」は終わりを告げ、「個体主義の時代」とでも言うべき時代が始まりました。以降の20世紀を通してずっとこの時代が続き、ある意味では未だに継続しています。


ウィリアムズにより打ち立てられたもう一つのテーマは、遺伝子が淘汰の基本単位であるという概念です。有性生殖を行う種では、個体は遺伝子がユニークに集合したもので、二つとして同じものがありません。ですから個体は複数の世代にわたって自然淘汰がはたらく永続性を持ち合わせません。ウィリアムズによれば、遺伝子が自然淘汰の単位であるのは、集団はおろか個体には欠けている永続性を遺伝子が持っているからなのです。


多くの点で、また彼自身の説明から、ウィリアムズはダーウィンに始まり、シーウォル・ライト、ロナルド・フィッシャー、J.B.S.ホールデンら理論生物学者たちにより洗練された考えをより一般の読者に向けて解き明かしていました。遺伝子が淘汰の基本単位であるという概念は、集団遺伝学の平均効果という概念と同じものです。これは、遺伝子が経験した環境や個体の遺伝型すべてを加味したときの対立遺伝子の適応度を平均したものです。10年後、ドーキンスはさらに幅広い読者に対して解説者の役目を果たしました。平均効果は利己的な遺伝子となり、個体は遺伝子に支配される無能なロボットになったのです。集団淘汰は少数派の考えとなり、考慮すべきでない例としてのみ教えられるものになりました。ある著名な進化学者は、1980年代に生徒にこうアドバイスしています。「生物学で使ってはいけない考え方には3つある。ラマルキズム、フロギストン説、そして集団淘汰だ」。


(つづく)