レヴィット&ダブナー:スターはつくられる

前回にも少し関係するかなという感じの「Freakonomics」のコラムです。去年のワールドカップ前ということで結構古いのですがおもしろかったので紹介します。

概要
http://www.freakonomics.com/times0507.html
本文
http://www.freakonomics.com/times0507col.html

レヴィット&ダブナー:スターはつくられる―才能を真に生み出すもの


2006年5月7日付


来月開催されるワールドカップに出場するサッカー選手の生年月日を調べたら、衝撃の新事実が見つかるはずだ。それは、一流サッカー選手は一年の前半期に生まれることが多いというものだ。ここで、ワールドカップやプロチームで活躍することになるヨーロッパ各国のユース代表選手を見てみると、この新事実がもっとはっきりした形で見えてくるだろう。たとえば近年のプレミアリーグでの10代の選手のうち、半数は1月〜3月に生まれていて、残り半分はほかの9ヶ月にばらけて生まれている。ブンデスリーガだと、52人の若手選手が1〜3月生まれで、10〜12月に生まれた選手は4人しかいない。


このゆがみはどう説明したらいいんだろう? いくつか推測してみると、1)サッカースキルを高める占星術的な兆候がある、2)冬に生まれた子供は酸素容量が高くなる傾向がある、3)サッカー狂の親はサッカーが一年で一番熱狂する春頃に子供を作りやすい、4)それ以外。


フロリダ州立大学心理学教授アンデルス・エリクソン(58)は、「それ以外」の可能性が非常に高いと考えている。エリクソンは「エキスパート技能ムーブメント」と呼んでもいいような研究者たちの集まりのリーダー的存在で、彼らは重要でたぶん根源的な疑問、「あることに長けている人がそうなっているのは、何が原因なのか?」に答えを見つけようとしている。


エリクソンスウェーデンで生まれ育ち原子力工学を研究していたが、あるとき心理学に転向すれば自分が主体的に研究を進めることがもっとできるんじゃないかと思い立った。30年ほど前になる彼の最初の実験は記憶力に関するものだった。被験者にランダムな数字の列を聞かせて繰り返させるというものだ。「最初の被験者は20時間ほどトレーニングを行った後に記憶可能な数字が7桁から20桁に増えた」とエリクソンは回想している。「その後も数字の数は伸び、200時間ほどトレーニングを行ったときには80桁の数字を覚えられるようになった。」


その後の研究で、記憶力それ自体は遺伝的に決定されないということが明らかになった。自分の実験とこうした研究から、記憶という行為は直観的というよりはより認知的な運動である、とエリクソンは結論付けた。言い換えるとこれは、人間の記憶力に関してどんな生まれついての差が確認できようとも、この差は情報の「エンコード」方法のよしあしで消え去ってしまうということだ。そして情報を意味ある形でエンコードさせるベストの方法は、計画的練習といわれるプロセスなのだ、とエリクソンは考えた。


計画的練習は単に作業を繰り返す、たとえばハ短調の音階を100回弾いてみるとか、脱臼するまでテニスのサーブ練習をするとかといったものだけにとどまらない。そこでは特定のゴールの設定、その場その場でのフィードバック、それに結果プラス技術の重視が重要になる。


エリクソンたちはさまざまな分野での一流の人々を研究することに没頭してきた。そうした分野にはサッカー、ゴルフ、外科手術、ピアノ演奏、スクラブル、物書き、チェス、ソフトウェアデザイン、証券コンサル、ダーツがある。得られるデータは全て集められた。これは彼ら一流人の業績データや経歴上の詳細だけではなくて、そうした成績優秀者に対して行った研究室での実験結果も含まれている。


彼らの研究は来月出版される「Cambridge Handbook of Expertise and Expert Performance (ハンドブック:専門技術と専門能力)」という900ページにわたる学術書にまとめられている。この本の主張にはちょっと驚かされる。一般に才能と呼ばれている特性は過大評価されすぎている、と言っているんだ。別の言い方をすれば、エキスパートは、その分野が記憶力でも外科手術でも、バレエでもプログラミングでも、ほとんどの人は成長とともにつくりあげられた、つまり生まれついてのものではなかったんだ。それに、練習こそが完璧をもたらす、ということも言っている。こうしたものはありふれた表現で、親は子供によくささやいている。でもこうしたありふれた表現が正しいことだってある。


エリクソンの研究から三つ目のありふれた表現も見えてくる。好きこそ物の上手なれ。人生設計をするんだったら、自分の好きなものを選べ。好きじゃなかったら一生懸命がんばって上達しようというふうにはなりにくいからね。自分の得意でないものはやりたくない、というのは自然だ。だからギブアップすることも多い。俺には数学の/スキーの/バイオリンの才能がなかったんだな。ぶつぶつ。でも本当になかったのは、上達したいという欲求であり、上達につながる計画的練習をやってみたいという欲求だったんだ。


エリクソンは自分の研究についてこう語っている。「ここから言えるのは、生まれついての限界があると思い込んでしまっている人は多いというものだ。しかしマスターするために時間をかけないですばらしい能力を得る可能性についての確かな証拠はほとんどない。驚くほどだ。」でもこのことは潜在能力がみんなに平等に備わっているということじゃない。マイケル・ジョーダンだったら、数え切れないほどの時間をジムで過ごさなかったとしても、ほかの人よりバスケットボールはうまかっただろう。でもそうした時間をすごさなければ実際の彼ほどのプレイヤーには絶対になれなかったはずなんだ。


エリクソンの結論が正しいとすれば、さまざまな分野に応用できそうだ。学生は自分の興味を持っている分野を早いうちから学ぶようにさせたほうがいい。そうすればより能力を高めていけるし、意義あるフィードバックも得やすくなる。高齢者も新たな能力を得る気になったほうがいい。とくに「才能」は必要だけど自分にはないから、とあきらめていた人は。


それに医学トレーニングを考え直すこともたぶん有効だろう。エリクソンによると、医者の大半は医学部を出たあとの実際の医療現場にいる期間が長いほど能力が落ちていくという。でも外科医は例外だ。これは、その場でのフィードバックと特定のゴール設定という計画的練習の重要な要素二つに外科医が常にさらされているからだ。


でも、たとえばマンモグラム医にとってこのことは当てはまらない。医者がマンモグラムを診るときには乳がんがあるかどうか確実なことはわからない。何週間も経ったあとに生検を行うか、何年も経った後でがんが進行してやっとわかるようになる。意味あるフィードバックがなければ、医者の能力は時間を経るごとに実は悪くなっていく。エリクソンは新しいトレーニング法を提案する。「医者が古い症例のマンモグラムを診断すれば、それぞれの症例について正しい診断のフィードバックがその場で得られるだろう」と。「こうした学習環境で作業すれば、医者は通常なら二年かけて学ぶものより多様ながんについて一日で判断できるようになるかもしれない。」


少なくとも、エリクソンやエキスパート技能運動の賛同者の洞察から、なんで一流サッカー選手が一年の早いうちに生まれるのかというなぞの答えが見えてくる。


ユースチームは年齢枠別に組織されるから、ユースチームには生年月日の上限日が設定されている。ヨーロッパリーグのユースチームの場合上限日は12月31日だ。ここで、監督が同じ年齢枠の1月生まれと12月生まれの二人の選手を見比べるとき、1月生まれの選手のほうが大きく強く成熟している可能性は高い。監督はどっちの選手を選ぶだろうね。監督は成熟さを能力と勘違いしているのかもしれないけれど、それでも自分の好きなほうを選ぶだろう。で一度選ばれたら、こういう1月生まれの選手たちは、年とともにトレーニング、つまり計画的練習やフィードバックを受けることになる。自尊心が伴うのは言うまでもない。こうしたものを受けて、彼らは一流選手になっていく。


子供を間違った月に生んでしまったサッカー狂いのお父さんお母さんは残念でした。でも練習は続けるのが大事。5月初旬の今度の日曜日に妊娠したら子供は来年の二月に生まれるだろう。そうなると、2030年のワールドカップを家族席から観戦するチャンスはかなりよくなるはずですよ。

さらに


http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2006/09/10_1.html
エリクソンについてはこちらでも日本語で紹介されています。


http://www.tuat.ac.jp/~hes/osaka%202005%20HP/3-3.pdf
また、日本でも「相対年齢効果」(早い月生まれの子が…というやつ)は確認できるようですね。

ポール・グレアム「賢くなる価値はあるの?」

ポール・グレアムのエッセーを訳してみました。


id:lionfanさんにより、いわしが設置されています。ありがとうございます。誤訳等があればこちらでもそちらでもいいので教えていただけると幸いです。
http://q.hatena.ne.jp/1171633871


なお、「wise/wisdom」「intelligent;smart/intelligence」が使われていますが、それぞれ「賢い/さ」と「頭の良い/さ」としています。

ポール・グレアム「賢くなる価値はあるの?」


Is It Worth Being Wise?
http://www.paulgraham.com/wisdom.html


2007年2月
February 2007


何日か前に、わたしが25年間ずっと不思議に思っていたことの答えを見つけることができた。それは賢さと頭の良さの関係だ。二つが違うということは誰にでもわかる。頭はいいけれど賢くない人はたくさんいるからね。でも頭の良さと賢さに関係があるというのも確かに思える。どういう関係なんだろう?
A few days ago I finally figured out something I've wondered about for 25 years: the relationship between wisdom and intelligence. Anyone can see they're not the same by the number of people who are smart, but not very wise. And yet intelligence and wisdom do seem related. How?


賢さというのはなんだろうか。さまざまな状況下で何をすべきか知っていることだと思う。ここでは賢さの本質が何なのか言いたいんじゃなくて、このことばがどう使われているか確かめたいだけだ。賢い人間は普通何をすべきなのかわかっている。
What is wisdom? I'd say it's knowing what to do in a lot of situations. I'm not trying to make a deep point here about the true nature of wisdom, just to figure out how we use the word. A wise person is someone who usually knows the right thing to do.


でも頭がいいというのもある状況で何をすべきか知っていると言うことじゃないのかな? たとえば、小学校の授業で1から100までの数を全部足しなさいと先生に言われたときに何をしたらいいのか、とか[1]
And yet isn't being smart also knowing what to do in certain situations? For example, knowing what to do when the teacher tells your elementary school class to add all the numbers from 1 to 100? [1]


賢さと頭の良さは別の種類の問題に使われる、という人もいる。賢さは人間の問題に、頭の良さは抽象的な問題に、というわけ。でもこれは間違い。賢さと人間が関係しないこともある。たとえば、ある構造がほかより失敗しにくいのを知ってるエンジニアの賢さとか。それに頭のいい人が抽象的な問題だけじゃなくて人間の問題にもさえた答えを出せることがある[2]
Some say wisdom and intelligence apply to different types of problems?wisdom to human problems and intelligence to abstract ones. But that isn't true. Some wisdom has nothing to do with people: for example, the wisdom of the engineer who knows certain structures are less prone to failure than others. And certainly smart people can find clever solutions to human problems as well as abstract ones. [2]


ほかにも、賢さは経験から来て、頭の良さは生まれつきだという説明も有名だ。でも経験豊富だからといって賢さがあるかというとそうでもない。賢くなるためには経験のほかにも必要なはずで、そこには生まれつきのものもあるかもしれない。たとえば内省的な性格とか。
Another popular explanation is that wisdom comes from experience while intelligence is innate. But people are not simply wise in proportion to how much experience they have. Other things must contribute to wisdom besides experience, and some may be innate: a reflective disposition, for example.


というわけで賢さと頭の良さの違いについての昔からの説明はちゃんと調べると正しくない。ではこの違いはいったい何だろう? 「賢い」と「頭がいい」ということばがどう使われているのか見ると、この使い分けは成果の出方の違いからきているようだ。
Neither of the conventional explanations of the difference between wisdom and intelligence stands up to scrutiny. So what is the difference? If we look at how people use the words "wise" and "smart," what they seem to mean is different shapes of performance.

グラフの線・Curve


「賢い」も「頭がいい」も何をすべきか知っているということを言うために使われる。二つの違いは「賢い」というのが全ての状況を見通したときに成果が平均して高い、という意味で、「頭がいい」というのはいくつかの状況で飛びぬけてすばらしい成果を出すということだ。つまりX軸に状況、Y軸に成果をとったグラフをつくると、賢い人間のグラフの線は全体的に高く、頭のいい人間のグラフにはいくつかのピークがある、ということだ。
"Wise" and "smart" are both ways of saying someone knows what to do. The difference is that "wise" means one has a high average outcome across all situations, and "smart" means one does spectacularly well in a few. That is, if you had a graph in which the x axis represented situations and the y axis the outcome, the graph of the wise person would be high overall, and the graph of the smart person would have high peaks.


この違いは、才能は最大を、性格は最悪を想定して人を判断すべきだというルールに似たものがある。このルールとちょっと違うのは、頭の良さは最大を想定して、賢さは平均を想定しろということだ。そういうふうにこの二つはかかわっている。グラフの線の高さについて二つの別の意味で言っているんだよ。
The distinction is similar to the rule that one should judge talent at its best and character at its worst. Except you judge intelligence at its best, and wisdom by its average. That's how the two are related: they're the two different senses in which the same curve can be high.

だから賢い人は多くの状況下で何をしたらいいか知っているし、頭のいい人間は誰もできないような状況で何をしたらいいか知っている。ここに条件をもう一つ。内部情報があって何をすべきか知っているという場合は無視する、というものだ[3]。でもこの条件以外でもっとはっきりした区別ができるようになるとは思わない。誤解が生まれてくると思う。

So a wise person knows what to do in most situations, while a smart person knows what to do in situations where few others could. We need to add one more qualification: we should ignore cases where someone knows what to do because they have inside information. [3] But aside from that, I don't think we can get much more specific without starting to be mistaken.


それにそれ以上はっきりさせなくてもいい。単純だけれども、この説明から、賢さと頭の良さの違いについての昔からある話の両方を予測できるというか、まあ少なくとも矛盾しないと言える。人間の問題は種類的に一番よくあるので、そうした問題の解決がうまいということは平均的に高い成果を生み出すために重要だ。それに、平均的に高い成果というのは普通経験によるところが大きいけれど、すごくすばらしい成果というのはある特殊な生まれつきの性質を持った人だけが達成できる、というのも自然に聞こえる。誰でも泳ぎは上達できるけれど、オリンピックに出るためには特別な体格が必要だ。
Nor do we need to. Simple as it is, this explanation predicts, or at least accords with, both of the conventional stories about the distinction between wisdom and intelligence. Human problems are the most common type, so being good at solving those is key in achieving a high average outcome. And it seems natural that a high average outcome depends mostly on experience, but that dramatic peaks can only be achieved by people with certain rare, innate qualities; nearly anyone can learn to be a good swimmer, but to be an Olympic swimmer you need a certain body type.


こうした説明から、なぜ賢さという概念がぼやけたものなのかも見えてくる。つまり賢さなんてものは存在しないんだ。「賢い」というのは、平均すると正しい選択をすることが多いとか、そういうことだ。でもそうすることができるようになると考えられる性質に「賢さ」と名前をつけたからといって、そうしたものが存在するとは限らない。「賢さ」がなにかを意味しているとすれば、それは自制力、経験、共感といったさまざまな性質がごちゃ混ぜになったものを指しているに過ぎない[4]
This explanation also suggests why wisdom is such an elusive concept: there's no such thing. "Wise" means something?that one is on average good at making the right choice. But giving the name "wisdom" to the supposed quality that enables one to do that doesn't mean such a thing exists. To the extent "wisdom" means anything, it refers to a grab-bag of qualities as various as self-discipline, experience, and empathy. [4]


同じように、「頭がいい」というのもなにかを意味しているけれど、「頭の良さ」と呼ばれるものがひとつの性質だと考えるとしんどいことになる。さらに言うと頭の良さの要素がなんであれ、全部が生まれつきというわけではない。「頭がいい」ということばは能力の目安として使われるんだ。つまり頭のいいひとはほとんどの人が理解できないようなことを理解できる。頭をよくさせる(賢くなる)生まれつきの要因がある、とは言えそうだけれど、この要因自体は頭の良さではないんだよ。
Likewise, though "intelligent" means something, we're asking for trouble if we insist on looking for a single thing called "intelligence." And whatever its components, they're not all innate. We use the word "intelligent" as an indication of ability: a smart person can grasp things few others could. It does seem likely there's some inborn predisposition to intelligence (and wisdom too), but this predisposition is not itself intelligence.


頭の良さが生まれつきだと考えてしまいやすいのは、頭の良さを測ろうとするときに一番測りやすい面に集中してしまっていたから、というのもある。生まれつきの性質を調べるのは、経験に影響されるせいで調査の途中で変化してしまうものを調べるよりも都合がいいからね。問題は、「頭の良さ」と言うことばを測っているものにのっけてしまうときに起こる。生まれつきのものを測っているんだったら頭の良さを測っていないはずなんだ。3歳児は頭よくないでしょ。頭がいい3歳児がいると言うときは、「ほかの3歳児より頭がいい3歳児がいる」というのを短くして言っているだけなんだ。
One reason we tend to think of intelligence as inborn is that people trying to measure it have concentrated on the aspects of it that are most measurable. A quality that's inborn will obviously be more convenient to work with than one that's influenced by experience, and thus might vary in the course of a study. The problem comes when we drag the word "intelligence" over onto what they're measuring. If they're measuring something inborn, they can't be measuring intelligence. Three year olds aren't smart. When we describe one as smart, it's shorthand for "smarter than other three year olds."

分離・Split


頭がよくなるための要因と頭の良さが同じじゃないと指摘するのは細かすぎるかもしれない。でもこの細かさは大事なんだ。わたしたちが賢くなれるのと同じで、頭をよくすることもできるんだということを思い出させてくれるからだ。
Perhaps it's a technicality to point out that a predisposition to intelligence is not the same as intelligence. But it's an important technicality, because it reminds us that we can become smarter, just as we can become wiser.


注意しないといけないのは、どちらか一つを選ばないといけないかもしれない、ということだ。
The alarming thing is that we may have to choose between the two.


賢さと頭の良さというのが、グラフの同じ線の平均値とピークだとすると、線上の点が少なくなるにつれて二つは一つにまとまってくる。点が一つしかなければ二つはまったく同じになる。平均と最大値が同じということだね。でも点の数が増えると、賢さと頭の良さは分かれてくる。それに歴史的に見ると線上の点の数は増えてきているみたいだ。私たちの能力は幅のずっと広い状況下で試されている。
If wisdom and intelligence are the average and peaks of the same curve, then they converge as the number of points on the curve decreases. If there's just one point, they're identical: the average and maximum are the same. But as the number of points increases, wisdom and intelligence diverge. And historically the number of points on the curve seems to have been increasing: our ability is tested in an ever wider range of situations.


孔子ソクラテスの時代では、賢さ、学習、頭の良さは現代よりもっと関連が高いものと考えられていたようだ。「賢い」と「頭がいい」を区別するのは現代的な習俗だ[5]。なぜそうするのかといえば、二つが分かれてきているからだ。知識の特化が進んでいって、グラフの線に点が増えたし、ピークと平均の違いもよりはっきりとしてきた。ピクセル数の多いデジタル画像のように。
In the time of Confucius and Socrates, people seem to have regarded wisdom, learning, and intelligence as more closely related than we do. Distinguishing between "wise" and "smart" is a modern habit. [5] And the reason we do is that they've been diverging. As knowledge gets more specialized, there are more points on the curve, and the distinction between the spikes and the average becomes sharper, like a digital image rendered with more pixels.


その結果昔の育て方には時代遅れになってしまったものもあるだろう。少なくとも賢さや頭の良さの育て方が本当にそうなのか確かめる必要がある。でも頭の良さと賢さが分裂したせいで本当に驚くほど変わってしまったのは、現代ではどちらが好ましいか決めないといけなくなったのかもしれないということだ。二つを同時に最適化することはできないかもしれないんだ。
One consequence is that some old recipes may have become obsolete. At the very least we have to go back and figure out if they were really recipes for wisdom or intelligence. But the really striking change, as intelligence and wisdom drift apart, is that we may have to decide which we prefer. We may not be able to optimize for both simultaneously.


社会的には頭の良さが好まれているようだ。賢者は二千年前と同じようには賞賛されなくなってしまった。賞賛されるのは天才だ。というのも実はこのエッセーの最初にやった区別にはちょっとむごい逆の状況があるからだ。そんなに賢くなくても頭がいいというのがあるのと同じで、そんなに頭がよくなくても賢いというのもありうる。これはあんまり賞賛に値するとは思えない。ジェームズ・ボンドがこれだ。いろんな状況下で何をすべきかしっているけれど、数学が必要になるとQに頼らざるをえない。
Society seems to have voted for intelligence. We no longer admire the sage?not the way people did two thousand years ago. Now we admire the genius. Because in fact the distinction we began with has a rather brutal converse: just as you can be smart without being very wise, you can be wise without being very smart. That doesn't sound especially admirable. That gets you James Bond, who knows what to do in a lot of situations, but has to rely on Q for the ones involving math.


頭の良さと賢さが相互に排他的でないというのは明らかだ。実際平均値が高ければピークも高くなりやすい。でもどちらかを選ばないといけない状況がくると信じる理由もある。一つ例を出してみよう。とても頭のいい人が賢くないことをするというのは、いまやポピュラー文化では例外というよりは常識扱いになっていると思われるほどだ。たぶん上の空の教授は彼なりに賢いというか、見かけよりも賢いんだろうけれど、それは孔子ソクラテスが求めた賢さじゃない[6]
Intelligence and wisdom are obviously not mutually exclusive. In fact, a high average may help support high peaks. But there are reasons to believe that at some point you have to choose between them. One is the example of very smart people, who are so often unwise that in popular culture this now seems to be regarded as the rule rather than the exception. Perhaps the absent-minded professor is wise in his way, or wiser than he seems, but he's not wise in the way Confucius or Socrates wanted people to be. [6]

現代・New


孔子ソクラテスも、賢さ、美徳、幸福は必然的にかかわっていると考えた。賢い人は正しい選択を知っていて常にその選択を行う人のことだ。選択が正しいならばその選択は道徳的に正しいはずだ。だからその人は常に幸福だった。最良の選択をしているとわかっていたからだ。今のところこのことに異議を唱えた古代の哲学者は思いつかない。
For both Confucius and Socrates, wisdom, virtue, and happiness were necessarily related. The wise man was someone who knew what the right choice was and always made it; to be the right choice, it had to be morally right; he was therefore always happy, knowing he'd done the best he could. I can't think of many ancient philosophers who would have disagreed with that, so far as it goes.


「君子はいつも幸せだが、小人はいつでもくよくよしている」と孔子は言っている[7]
"The superior man is always happy; the small man sad," said Confucius. [7]


数年前に数学者がインタビューに答えて、寝るときは大抵気分がよくない、あんまり研究がうまくいってないように思うので、と言っているのを読んだことがある[8]。「幸せ」と訳される中国やギリシャの古のことばは、必ずしも現代での幸せを意味していない。でも十分に重なっていて、数学者の発言がそうしたものとは違うとは言える。
Whereas a few years ago I read an interview with a mathematician who said that most nights he went to bed discontented, feeling he hadn't made enough progress. [8] The Chinese and Greek words we translate as "happy" didn't mean exactly what we do by it, but there's enough overlap that this remark contradicts them.


あの数学者は気分がよくないんだから小人だといえるのだろうか。いや、彼は孔子の時代にはあまりなかった仕事をしているだけのことなんだ。
Is the mathematician a small man because he's discontented? No; he's just doing a kind of work that wasn't very common in Confucius's day.


人間の知はフラクタル的に成長しているようだ。つまらなさそうに見えた分野や実験誤差でさえも、詳しく吟味されればそこにそれまでの知識全てに匹敵するようなものがあるということは歴史上何度もあった。古代から爆発的に成長したフラクタルの芽には新たなものの発明や発見が不可欠なものがある。たとえば数学は少数の人間が片手間でやるようなものだった。今では何千人もが専門的にやっている。それに新しいものをつくり出すような仕事では、昔の教えが使えないことがある。
Human knowledge seems to grow fractally. Time after time, something that seemed a small and uninteresting area?experimental error, even?turns out, when examined up close, to have as much in it as all knowledge up to that point. Several of the fractal buds that have exploded since ancient times involve inventing and discovering new things. Math, for example, used to be something a handful of people did part-time. Now it's the career of thousands. And in work that involves making new things, some old rules don't apply.


わたしは最近人にアドバイスすることをやってたりした。そこで古代の教えが今でも使えることに気づいた。出来る限り状況を把握すること、経験に基づいた一番いいアドバイスを行うこと、できることをやったらもうあとは気にしないこと、というものだ。でもエッセーを書いているときはこういう心の平安はもてない。不安になる。アイデアが出なくなったらどうしよう。エッセーを書いているときは8割くらいの確率で寝ていても気分がよくない。あんまりうまくいってないなと思ってしまう。
Recently I've spent some time advising people, and there I find the ancient rule still works: try to understand the situation as well as you can, give the best advice you can based on your experience, and then don't worry about it, knowing you did all you could. But I don't have anything like this serenity when I'm writing an essay. Then I'm worried. What if I run out of ideas? And when I'm writing, four nights out of five I go to bed discontented, feeling I didn't get enough done.


人にアドバイスすることとものを書くというのは本質的に違う種類の作業だ。問題を抱えた人がやってきて何をすべきか見つけないといけないときには、(普通は)何も発明しなくていい。とりうる選択肢を天秤にかけてどれが思慮深い選択かを判断しようとすればいい。でも思慮深さがあっても次に書くべき文は見えてこない。探索空間が大きすぎる。
Advising people and writing are fundamentally different types of work. When people come to you with a problem and you have to figure out the right thing to do, you don't (usually) have to invent anything. You just weigh the alternatives and try to judge which is the prudent choice. But prudence can't tell me what sentence to write next. The search space is too big.


裁判官や将校みたいな人なら仕事の大部分で義務感がガイドになりうる。でも義務感はものづくりのガイドにはならない。ものづくりはもっと不安定なもの、つまりインスピレーションに頼らないといけない。そして不安定な生活を送る人のように、作り手も満足できずに不安な生活を送ることが多い。この点では凶作が一度おこれば(暴君が一人いれば)餓死につながった孔子時代の小人に近い。彼らが天候や支配者の言いなりだったように、作り手は自分自身の想像力の言いなりなんだ。
Someone like a judge or a military officer can in much of his work be guided by duty, but duty is no guide in making things. Makers depend on something more precarious: inspiration. And like most people who lead a precarious existence, they tend to be worried, not contented. In that respect they're more like the small man of Confucius's day, always one bad harvest (or ruler) away from starvation. Except instead of being at the mercy of weather and officials, they're at the mercy of their own imagination.

限界・Limits


別に気分がよくなくてもかまわないんじゃないかと思えたことはわたしには救いになった。成功者は幸福なはずだという考えの背後には何千年に及ぶ影響力がある。自分が少しは成功しているとして、成功者なら簡単に持てるはずの自信を持てないというのはなぜなんだろう? でもこれはランナーが「自分ではすごいアスリートだと思うんだけれど、どうしてこんなに疲れる気がするんだろう?」と自問しているのと同じことだ、と今では思う。いいランナーでも疲れる。速く走れば疲れるものなんだ。
To me it was a relief just to realize it might be ok to be discontented. The idea that a successful person should be happy has thousands of years of momentum behind it. If I was any good, why didn't I have the easy confidence winners are supposed to have? But that, I now believe, is like a runner asking "If I'm such a good athlete, why do I feel so tired?" Good runners still get tired; they just get tired at higher speeds.


発明や発見が仕事の人はランナーと同じ立場だ。自分の能力のベストを達成することはできない。潜在能力に限界がないからだ。自分と他人を比べればそこに一番近づける。でも自分の仕事がよければよいほど、このことは問題じゃなくなってくる。学生がなにか出版できたらスターの気分だろうけれど、その分野でトップの人は自分がうまくやっているとどうやったら判断できるんだろう? ランナーはまったく同じことをしている他のランナーと自分を少なくとも比べることができる。オリンピックで金メダルをとれば、もう少しだけ速く走れると思っていても気分はいいだろう。でも小説家はどうすればいい?
People whose work is to invent or discover things are in the same position as the runner. There's no way for them to do the best they can, because there's no limit to what they could do. The closest you can come is to compare yourself to other people. But the better you do, the less this matters. An undergrad who gets something published feels like a star. But for someone at the top of the field, what's the test of doing well? Runners can at least compare themselves to others doing exactly the same thing; if you win an Olympic gold medal, you can be fairly content, even if you think you could have run a bit faster. But what is a novelist to do?


一方で、問題が提示されていて選択肢から一つを選ばないといけないような仕事をしていれば、自分の成果には上限がある。常にベストを選ぶというものだ。古代社会ではほとんど全ての仕事がこの種のものだったようだ。農民は服を繕うべきか決めなければならなかった。王様は隣国に攻め入るべきか決めなければならなかった。でもどっちの場合でも発明は期待されていなかった。もちろん原理上はある。王様は銃器を発明して隣国に攻め入った、というのもありうる。でも実際のところ技術革新はほとんど起こらなかったから、発明は期待されていなかった。ゴールキーパーによる得点が期待されていないように[9]。実際のところは全ての状況下で正しい決断があると考えられていたらしい。それでその決断を下せれば完璧に仕事ができたということだったようだ。ゴールキーパーが相手チームからの得点を防げればそれで完璧なプレーができたと考えられているのと同じだ。
Whereas if you're doing the kind of work in which problems are presented to you and you have to choose between several alternatives, there's an upper bound on your performance: choosing the best every time. In ancient societies, nearly all work seems to have been of this type. The peasant had to decide whether a garment was worth mending, and the king whether or not to invade his neighbor, but neither was expected to invent anything. In principle they could have; the king could have invented firearms, then invaded his neighbor. But in practice innovations were so rare that they weren't expected of you, any more than goalkeepers are expected to score goals. [9] In practice, it seemed as if there was a correct decision in every situation, and if you made it you'd done your job perfectly, just as a goalkeeper who prevents the other team from scoring is considered to have played a perfect game.


そこでは賢さが最重要だったようだ[10]。現代でも、直面した問題に対して最良の選択肢を選択しなければならないという仕事を多くの人がしている。でも知識がより特化してきて、新しいものごとを発明しなければならず、そのため成果に上限のないタイプの仕事もずっと多くなっている。頭の良さは賢さに比べてますます重要になってきている。ピーク時の成果が重視されることが多くなったからだ。
In this world, wisdom seemed paramount. [10] Even now, most people do work in which problems are put before them and they have to choose the best alternative. But as knowledge has grown more specialized, there are more and more types of work in which people have to make up new things, and in which performance is therefore unbounded. Intelligence has become increasingly important relative to wisdom because there is more room for spikes.

育て方・Recipes


頭の良さと賢さからどちらかを選ばないといけないのは、この二つの育て方に違いがあるということから見えてくる。賢さは大部分が子供らしさを治すことで得られるし、頭の良さは子供らしさを養うことで得られる。
Another sign we may have to choose between intelligence and wisdom is how different their recipes are. Wisdom seems to come largely from curing childish qualities, and intelligence largely from cultivating them.


賢さの育て方、特に古代のものは、治療的な性格が強かった。賢くなるためには子供時代からずっと湧き出て頭をいっぱいにするごみくずを取り払って、大事なものだけを残さないといけない。自己抑制も経験もこの効果がある。それぞれ自分自身の性格や、育ってきた環境からくるランダムなバイアスを取り除けるんだ。賢さはこれですべてではないけれど、大部分が含まれている。賢者の頭の中にあるものの多くは全ての12歳児の頭の中にもある。12歳児の頭にはランダムなたくさんのくずと混じり合っている、というのが違うんだ。
Recipes for wisdom, particularly ancient ones, tend to have a remedial character. To achieve wisdom one must cut away all the debris that fills one's head on emergence from childhood, leaving only the important stuff. Both self-control and experience have this effect: to eliminate the random biases that come from your own nature and from the circumstances of your upbringing respectively. That's not all wisdom is, but it's a large part of it. Much of what's in the sage's head is also in the head of every twelve year old. The difference is that in the head of the twelve year old it's mixed together with a lot of random junk.


頭がよくなるには難しい問題に取り組む必要があると思う。頭の良さを発達させるには、筋トレと同じで、練習が必要だ。でも無理強いしすぎるのはよくない。しつけがどれだけあっても本当の好奇心には負ける。だから頭の良さを養うことは人の性格のバイアス、つまり何に興味を持ちやすいかを見つけて育てるということが大事だと思う。真実への中立的な入れ物にしようとして自分の特殊性を取り払うのではなく、一つの特殊性を選び抜いて苗から木になるまで育てようとしないと。
The path to intelligence seems to be through working on hard problems. You develop intelligence as you might develop muscles, through exercise. But there can't be too much compulsion here. No amount of discipline can replace genuine curiosity. So cultivating intelligence seems to be a matter of identifying some bias in one's character?some tendency to be interested in certain types of things?and nurturing it. Instead of obliterating your idiosyncrasies in an effort to make yourself a neutral vessel for the truth, you select one and try to grow it from a seedling into a tree.


賢い人々の賢さは似たり寄ったりだけれど、とても頭のいい人の頭の良さにははっきりとした違いがある。
The wise are all much alike in their wisdom, but very smart people tend to be smart in distinctive ways.


伝統的な教育法では賢さに着目したものが多い。だから学校がうまく機能しないのは賢さの育て方をなぞって頭の良さを育てようとしているというのもあるかもしれない。賢さの育て方には従属の要素があることがほとんどだ。最低限、先生の言ったことは守らなければならない。もっと極端な例では基礎トレーニングでやるように個性を解体させようとするものもある。でもここからは頭の良さに結びつかない。賢さは謙虚さから生まれるけれど、逆に自分の能力を間違って高く評価することは、頭の良さを育てようとするときに役立つ。このせいでがんばり続けてしまうんだ。理想的には自分がどれだけ間違っていたか気づくまで続く。
Most of our educational traditions aim at wisdom. So perhaps one reason schools work badly is that they're trying to make intelligence using recipes for wisdom. Most recipes for wisdom have an element of subjection. At the very least, you're supposed to do what the teacher says. The more extreme recipes aim to break down your individuality the way basic training does. But that's not the route to intelligence. Whereas wisdom comes through humility, it may actually help, in cultivating intelligence, to have a mistakenly high opinion of your abilities, because that encourages you to keep working. Ideally till you realize how mistaken you were.


(新しいスキルを身につけるのが年をとると難しくなるのは脳に適応性がなくなってくるからだけじゃない。たぶんすっとひどい障害になるのは人が高い水準を求めるようになることだ。)
(The reason it's hard to learn new skills late in life is not just that one's brain is less malleable. Another probably even worse obstacle is that one has higher standards.)


これが危険な立場だ、というのはわかっている。教育の第一目的が生徒の自尊心を高めるものであるべきだと言いたいんじゃない。そこからは怠慢しか生まれない。それにいずれにせよ子供たちの頭がよくなくてもだませない。小さいうちにみんなが賞をもらえるコンテストなんてうそっぱちだということに気づくんだから。
I realize we're on dangerous ground here. I'm not proposing the primary goal of education should be to increase students' "self-esteem." That just breeds laziness. And in any case, it doesn't really fool the kids, not the smart ones. They can tell at a young age that a contest where everyone wins is a fraud.


先生は狭い道をわたらなければならない。子供たちに自分自身でものごとを思いついてほしいと思うけれど、思いついたもの全てを賞賛することもできない。鑑賞力はあるけれど簡単に感動しすぎてもだめだ、という良き鑑賞者でなければならない。これは大変な作業だ。異なる年齢での子供の能力を十分に把握しないと、いつなら驚くに値するかわからなくなってしまうからね。
A teacher has to walk a narrow path: you want to encourage kids to come up with things on their own, but you can't simply applaud everything they produce. You have to be a good audience: appreciative, but not too easily impressed. And that's a lot of work. You have to have a good enough grasp of kids' capacities at different ages to know when to be surprised.


これは伝統的な教育方法とは正反対だ。伝統的には生徒は聞き手で、先生じゃない。生徒の仕事は発明ではなくて、指定された教材を吸収することだ。(大学によって、授業のことを指して「recitation(暗誦)」という用語を使うことがあるのはこの名残だ。)こうした古い伝統が問題なのは賢さを育てることに影響されすぎているからだ。
That's the opposite of traditional recipes for education. Traditionally the student is the audience, not the teacher; the student's job is not to invent, but to absorb some prescribed body of material. (The use of the term "recitation" for sections in some colleges is a fossil of this.) The problem with these old traditions is that they're too much influenced by recipes for wisdom.

違い・Different


このエッセーには挑発的なタイトルをわざとつけた。もちろん賢くなる価値はある。でも頭の良さと賢さの関係を理解することは大事だと思う。そうすれば本当は賢くなるためのものなのに、原則や基準を頭がよくなるためのとして使わなくてよくなるからね。この二つの「何をすべきかわかっている」という意味は普通理解されているよりも違っているんだ。賢くなるためにはしつけが必要で、頭がよくなるためには注意深く選択された身勝手な振る舞いが必要だ。賢さは普遍的だけれど、頭の良さは個別的だ。それに賢さは平静を生み出すけれど、頭の良さは大抵不満につながる。
I deliberately gave this essay a provocative title; of course it's worth being wise. But I think it's important to understand the relationship between intelligence and wisdom, and particularly what seems to be the growing gap between them. That way we can avoid applying rules and standards to intelligence that are really meant for wisdom. These two senses of "knowing what to do" are more different than most people realize. The path to wisdom is through discipline, and the path to intelligence through carefully selected self-indulgence. Wisdom is universal, and intelligence idiosyncratic. And while wisdom yields calmness, intelligence much of the time leads to discontentment.


このことは特に覚えておいたほうがいい。物理学者の友人が最近話してくれたけれど、学部の半数の教員はプロザックを飲んでるそうだ。ある程度のイライラはある種の仕事に不可避だということを認めたら、その影響も緩和できるようになるかもしれない。時にはそれを箱につめて横においておけるようになるかもしれない。ただなすがままに日々の鬱屈と一緒にして、危険なくらいに大きくためこんでしまうんじゃなくてね。最低限、不満に感じること自体を不満に思わなくなれる。
That's particularly worth remembering. A physicist friend recently told me half his department was on Prozac. Perhaps if we acknowledge that some amount of frustration is inevitable in certain kinds of work, we can mitigate its effects. Perhaps we can box it up and put it away some of the time, instead of letting it flow together with everyday sadness to produce what seems an alarmingly large pool. At the very least, we can avoid being discontented about being discontented.


疲れたと思うのなら、それは必ずしも自分に問題があるからじゃない。もしかしたら単に速く走っているだけなのかもしれないよ。
If you feel exhausted, it's not necessarily because there's something wrong with you. Maybe you're just running fast.

注釈


[1]ガウスは10歳のときにこの問題をやるように言われたと考えられている。ほかの生徒のように数字を一つずつ面倒に足していくのではなく、この問題が101に足しあわされる50の組(100+1、99+2…)でできていて、101に50をかけて答えの5050を導き出せるということを見抜いた。(本文へ
[1] Gauss was supposedly asked this when he was 10. Instead of laboriously adding together the numbers like the other students, he saw that they consisted of 50 pairs that each summed to 101 (100 + 1, 99 + 2, etc), and that he could just multiply 101 by 50 to get the answer, 5050.


[2]別バージョンで、頭の良さは問題解決能力のことで、賢さはそうした解決法の使い方を知るための判断力のことだ、というものがある。でもこれは確かに賢さと頭の良さについての重要な関係ではあるけれど、これは二つの違いじゃない。賢さも問題解決に役立つし、頭の良さが解決法をどう使うか決めるのに役立つこともある。(本文へ
[2] A variant is that intelligence is the ability to solve problems, and wisdom the judgement to know how to use those solutions. But while this is certainly an important relationship between wisdom and intelligence, it's not the distinction between them. Wisdom is useful in solving problems too, and intelligence can help in deciding what to do with the solutions.


[3]頭の良さと賢さを判断する上で打ち消されないといけない知識もある。金庫の数字の組み合わせを知っている人は知らない人より金庫を開けやすいけれど、だれもこれが頭の良さや賢さを測るものだとは言わないでしょう?
[3] In judging both intelligence and wisdom we have to factor out some knowledge. People who know the combination of a safe will be better at opening it than people who don't, but no one would say that was a test of intelligence or wisdom.


でも知識は賢さと重なるし、おそらく頭の良さとも重なりがある。人間性についての知識は確実に賢さの部類に入る。じゃあどこに線をひこうか?
But knowledge overlaps with wisdom and probably also intelligence. A knowledge of human nature is certainly part of wisdom. So where do we draw the line?


場合によっては実用度が激減するような知識を軽く見れば解決できるんじゃないだろうか。たとえばフランス語を知っていると多くの状況で役に立つだろうけれど、だれもフランス語を理解できないという状況になればその価値は激減する。一方で虚栄心を理解している価値はもっとゆっくりと減少するだろう。
Perhaps the solution is to discount knowledge that at some point has a sharp drop in utility. For example, understanding French will help you in a large number of situations, but its value drops sharply as soon as no one else involved knows French. Whereas the value of understanding vanity would decline more gradually.


実用度が激減する知識は、ほかの知識との関連性がほとんどないような種類のものだ。ここにはただの慣習的なもの、たとえば言語や金庫の組み合わせ、それに「ランダムな」事実といわれるものもある。映画俳優の誕生日だとか、スチュードベイカーの1956年式と1957年式のスポーツカーの見分け方とか。(本文へ
The knowledge whose utility drops sharply is the kind that has little relation to other knowledge. This includes mere conventions, like languages and safe combinations, and also what we'd call "random" facts, like movie stars' birthdays, or how to distinguish 1956 from 1957 Studebakers.


[4]「賢さ」と呼ばれる単一のものを見つけようとしている人は文法にだまされてきた。賢さとは何をすべきか正しく知っているというだけのことで、何をすべきか正しく知るのに役立つ特性はいくつもある。たとえば無我といったものは空っぽの部屋で瞑想することから生まれるかもしれないけれど、人間性についての知識といったものは酔いどれパーティーに行けば得られるかもしれない。
[4] People seeking some single thing called "wisdom" have been fooled by grammar. Wisdom is just knowing the right thing to do, and there are a hundred and one different qualities that help in that. Some, like selflessness, might come from meditating in an empty room, and others, like a knowledge of human nature, might come from going to drunken parties.


このことを頭にいれておけば本当にたくさんの人の目に映る、賢さをとりまいている神聖なミステリーのもやもやを取り去ることができるんじゃないだろうか。このミステリーは普通は存在しないものを求めることで生まれる。それから歴史的に見て、賢さを得る方法についての思想に多様な学派があったのはなぜかというと、それぞれの学派が賢さに関する別々の要素に目を向けていたからだと言える。
Perhaps realizing this will help dispel the cloud of semi-sacred mystery that surrounds wisdom in so many people's eyes. The mystery comes mostly from looking for something that doesn't exist. And the reason there have historically been so many different schools of thought about how to achieve wisdom is that they've focused on different components of it.


わたしが「賢さ」と言うことばをこのエッセーで使うときは、多種多様な状況下で正しい選択を行うのに役立つ特性の集まり(それがなんであれ)のことを言っているだけだ。(本文へ
When I use the word "wisdom" in this essay, I mean no more than whatever collection of qualities helps people make the right choice in a wide variety of situations.


[5]英語でも、「頭の良さ」ということばの現代的な意味はおどろくほど新しい。それが使われる前からあった「理解力」といったことばにはより広い意味合いがあったようだ。(本文へ
[5] Even in English, our sense of the word "intelligence" is surprisingly recent. Predecessors like "understanding" seem to have had a broader meaning.


[6]もちろん孔子ソクラテスのものということにした考えが彼らの本当の見解にどれだけ近いのかは不確かな部分がある。彼らの名前は、「ホメロス」と言う名前を使うのと同じで、彼らのものとされる発言を実際に語った仮説上の人たちをあらわすために使っている。(本文へ
[6] There is of course some uncertainty about how closely the remarks attributed to Confucius and Socrates resemble their actual opinions. I'm using these names as we use the name "Homer," to mean the hypothetical people who said the things attributed to them.


[7]論語』述而第七36.ファンの翻訳による。
(日本語訳には→http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/kanmei.html を参考にしました。原文書き下しおよび和訳は以下のとおり。
「子の曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」
「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている」)
[7] Analects VII:36, Fung trans.


「幸せだ」と訳さずに「平安だ」と訳す人もいる。ここで厄介になるのは、現代英語を使う人は幸せについての考えが昔の多くの社会とは違うということだ。どの言語にも「ものごとがうまくいったときの感じ方」を意味する単語はあると思うけれど、ものごとがうまくいったときの反応は文化によって違ってくる。わたしたちは子供みたいに反応して、微笑んだり笑ったりする。でももっと保守的な社会や、生活がもっと厳しい社会では、充足感という反応になるのかもしれない。(本文へ
Some translators use "calm" instead of "happy." One source of difficulty here is that present-day English speakers have a different idea of happiness from many older societies. Every language probably has a word meaning "how one feels when things are going well," but different cultures react differently when things go well. We react like children, with smiles and laughter. But in a more reserved society, or in one where life was tougher, the reaction might be a quiet contentment.


[8]アンドリュー・ワイルズだったのかもしれないけれど、確かじゃない。もしだれかそんなインタビューがあったことを覚えていて、教えてくれたらうれしい。(本文へ
[8] It may have been Andrew Wiles, but I'm not sure. If anyone remembers such an interview, I'd appreciate hearing from you.


[9]孔子は、自分は何も発明しなかったのだ、ただ古代の伝統について正しい説明を伝えただけだ、と誇らしげに言っている。[『論語』述而第七 1] 無文字社会で蓄積された集団の知識を記憶し伝えていくことがどれくらい重要な責務だったのかを吟味することは現代では難しい。孔子の時代でも伝統の継承が学者の第一の責務だったようだ。(本文へ
[9] Confucius claimed proudly that he had never invented anything?that he had simply passed on an accurate account of ancient traditions. [Analects VII:1] It's hard for us now to appreciate how important a duty it must have been in preliterate societies to remember and pass on the group's accumulated knowledge. Even in Confucius's time it still seems to have been the first duty of the scholar.


[10]ギリシャでも中国でも、初期の哲学者の多くは(孔子プラトンも)自分たちのことを役人を教える立場だと考えていて、そうした問題を偏重して考えていたせいで、古代哲学の賢さ偏重はこれほど大きなものになったのかもしれない。語り手といった、ものごとを創り出した数少ない人たちは異常なデータ点なので無視していいと考えられていたに違いない。(本文へ
[10] The bias toward wisdom in ancient philosophy may be exaggerated by the fact that, in both Greece and China, many of the first philosophers (including Confucius and Plato) saw themselves as teachers of administrators, and so thought disproportionately about such matters. The few people who did invent things, like storytellers, must have seemed an outlying data point that could be ignored.


トレヴァー・ブラックウェル、サラ・ハーリン、ジェシカ・リヴィングストン、ロバート・モーリスは原稿を読んでくれた。ありがとう。
Thanks to Trevor Blackwell, Sarah Harlin, Jessica Livingston, and Robert Morris for reading drafts of this.

キャロル:かたちの起源

はじめに

月一更新失敗。。。


今回はショーン・B・キャロルによる「かたちの起源:リサイクルされ目的を変えて、おどろくほど多様な生物の胚発生をコントロールしている古い遺伝子について」
http://findarticles.com/p/articles/mi_m1134/is_9_114/ai_n15855378/print
です。日本語の本もあるのですが、高いので読んでません 笑

しかしエボデボってぱっとしない名前だなあと思います。英語だと Evo Devo でそれほどでもないんですが。

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コモドドラゴンの物語

前置き


http://richarddawkins.net/article,452,n,n より。

ドーキンスからのクリスマスプレゼント(笑)。コモドドラゴンコモドオオトカゲ)というと、NHK日曜日の番組、「ダーウィンが来た!」でも最近放送されてましたね。

こういうのが読みたかったのです。『祖先の物語2』とか『祖先の物語Updated』みたいなのが出版されたりしないかなあと想像してみたりしました。

コモドドラゴンの物語(リチャード・ドーキンス


おとなのコモドドラゴンは、3mほどにもなる貪欲な肉食獣で、小型の恐竜に間違うことがあるかもしれない。コモドドラゴンは本当は巨大なオオトカゲ(Varanus komodoensis)で、恐竜がたどった道をたどってきてはいないんだ。少なくとも今は、という話だけれど。それでも彼らはダグラス・アダムズとマーク・カーウォーダインによる名作「Last Chance to See」でも取り上げられた、絶滅危惧種のひとつだ。このトカゲはインドネシアの数少ない島々にしか生息していなくて、こうした島々には、コモド島はもちろん、フローレス島という島も含まれている。このフローレス島にはちょっと昔に絶滅したホモ・フローレシエンシスという人類種が住んでいて、コモドドラゴンや今は絶滅したさらに大きなオオトカゲはたぶん彼らをえさにしていた(そもそももしホモ・フローレシエンシスが本当に小型化した人類種であれば、の話だけど)。コモドドラゴンは今でもチャンスがあれば人間を食べる。だからコモドドラゴンは人類に広くある竜伝説の実在する起源としていいのでは、と言われている。実際中国の船乗りがコモドドラゴンの恐ろしい話を中国に帰ってきて触れ回った、というのは十分にありうる話だ。炎は吐かないけれど、コモドドラゴンの口には化膿菌が蔓延していて、一噛みで致命傷になってしまう。彼らのよくやる狩りの方法は、この致命的な一噛みを見舞っておいてから、獲物が細菌に感染して死んでしまうまで追い掛け回し、その後になって食べる、というものだ。コモドドラゴンはこの文を書いている現在(2006年クリスマス)話題になっている。ネイチャー誌に(Vol 444, 28th December 2006)掲載されたおもしろい論文が、コモドドラゴンが単為的に生殖可能である(つまり、「処女懐胎」できる)という証拠を示したからだ。これがわたしがこれからする物語のテーマだ。

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ビデオ各種(英語)

A War on Science

http://video.google.com/videoplay?docid=8173723631706439574


BBC のドキュメンタリー。ID論
ところでMichael Beheはベーエじゃなくてビーヒーなんだけど、
ダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦』ではベーエなんだな。なんでだろうな。


ところでここで出てくる微生物はバクテリアじゃない(ので鞭毛の例とは言えない)ように見えるんですが、どうなんだろう。まあ細かいですが。

気のいい奴が一番になる


http://video.google.com/videoplay?docid=8068309038544717701


ドット絵w
ドーキンス最大の失敗は、「利己的な遺伝子」というタイトルを書いてしまったことかもしれないなあと思ったりしました、がまあ利己的な遺伝子という用語を使っても使わなくても、誤読する人は出てくるか、とも思いました。

結構長かった

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1555132,00.html


より一部抜粋して訳しました。
フランシス・コリンズアメリカのヒトゲノムプロジェクトのトップで、The God Delusion では脚注で(セレラ・ジェノミクスの)クレーグ・ショットガン・ヴェンターと間違えんなよって書いてあった人ですね。

The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief
という本も書いていて、テンプルトン賞も近いかも。

コリンズ
ここ3,40年から始まった、社会生物学とか進化心理学と呼ばれる研究分野がありますが、そこでは道徳性の起源や人間社会において利他性が重視される理由について研究されています。そしてどちらについても、遺伝子の保存のための行動として適応された、と説明されます。しかしリチャードも明らかにしているように、自然淘汰が集団ではなく個体に対して働くと考えるのであれば、なぜ個々人は自分のDNAを危険にさらし自分の繁殖機会を減らしてまで、他人を助けるというような無欲の行いをしようとするのでしょうか。自分のDNAを共有しているという理由で家族を助けようとするかもしれません。情けは人のためならず、との期待から他者を助けるかもしれません。そうだとしても、利他性が最も寛容な形で表明されているとき、それは血縁淘汰や互酬性に基づいているのではないのです。オスカー・シンドラーが自分の命を賭して1000人以上のユダヤ人をガス室から救ったのは、極端な例といえるかもしれません。これは自分の遺伝子を守るという原理に反します。これほどドラマチックではないものの、利他的行動は日常普通に見られます。多くの人はこうした特質は神により与えられたと考えています。なぜなら正義や道徳性は私たちが神に帰すると最も容易に考えることのできるものだからです。
ドーキンス
アナロジーから始めてもいいですか。性的欲望は遺伝子を広げるためにある、と理解されていると思います。自然においてはセックスは、繁殖や遺伝子のコピーを広めるということに結びついていることが多い。でも近代社会では普通セックスするときは避妊します。これはまさに繁殖を避けるという目的からです。利他性もおそらくはこうした欲望に起源を持っていると思います。先史時代、私たちは家族社会に暮らしていました。まわりは親類ばかりで、自分たちと同じ遺伝子を持っているから、親類にとって得になることは自分も追求しようとしたかもしれません。しかし現在私たちは大都市に住んでいます。親類や自分の善行に対してお返ししてくれるような人はそばにいないわけです。でもこれは問題ではありません。避妊しつつセックスを行うとき、子どもを持とうという隠れた進化的な意図に動かされているとは気づかないように、相手によい行いをする理由が自分たちの祖先が小さな集団で暮らしていたという事実に基づいている、ということが頭によぎることはないのです。しかしこのことは道徳性、善という概念がなぜ要求されるのかについて、蓋然性の高い説明であると考えます。
コリンズ
ダーウィン的行動が誤って発動することで、私たちの最も高貴な振る舞いが現れる、と主張しても、ここで言う善や悪といった絶対的な価値について私たちみなが持っている感覚を正当に評価したことにはなりません。進化によって道徳性に関する何らかの特徴は説明されるかもしれませんが、なぜ道徳性が現実に意味を持っているのか、という理由については説明できないのです。進化上都合がよかった、というだけであるなら、善悪というものは存在しません。しかし私にとって善悪はそうしたもの超えたところにあります。道徳性があるから神が蓋然性のあるものとして考えることができます。宇宙をスタートさせた神、というだけではなく、人類を気にかけるという意味での神です。なぜなら私たちは非常に発達した道徳性の感覚を持っている唯一の生物だと考えられるからです。あなたのおっしゃったことから察するに、進化の過程を経て出来上がった人間の心の中以外には、善と悪というものに意味はないと。そういうことであっていますか?
ドーキンス
あなたがお聞きになっている質問自体が私にとっては意味のないものです。善と悪、そうしたものがそこらに転がっているとは思いません。どこにも、善と呼ばれるもの、悪と呼ばれるものはないのです。起こったものに対して、それが善いもの、悪いものと判断されるんだ、考えています。
コリンズ
これは私たちの間にある根本的な違いですね。それを判別できたのは喜ばしい。