「メディア・バイアス」より引用

松永和紀『メディア・バイアス』という本を、メディア報道に関する2冊の本という記事から知り購入したのですが、そこに以下の文があります。

その後、二〇〇六年一月には、英国の新聞「インディペンデント」が博士の主張をそのまま記事化しました。書いた記者は以前から遺伝子組み換え反対の論述を展開していた人です。しかし、日頃は遺伝子組み換え批判的な「ガーディアン」紙をはじめとして「タイムズ」紙、BBC放送、EUのそのほかの有力メディアは、どこもまったく取り上げませんでした。

博士というのは、イリーナ・エルマコヴァという人。
http://blackshadow.seesaa.net/article/20704481.html
などを参照。


でなんなんだというと、Gigazine
ジュースは身体に極めて悪影響を及ぼすかもしれません という記事


元記事がIndependentだとすると、この記事を書いた、Martin Hickman, Consumer Affairs Correspondentは松永氏の言う「以前から遺伝子組み換え反対の論述を展開していた人」なのかなあ、と。

→違った。Geoffrey Leanという人がエルマコヴァの記事を書いたらしい。

ドン引きってのはこういうことだ!

http://news.livedoor.com/article/detail/3170003/
を見て、


以前自分で訳したWikipediaの項目を思い出したので再度リンクを貼っておきます。あまりいい訳だとは思いませんが。訳した人に物理化学の知識はほとんどありませんが、天体望遠鏡を自作してたらバズーカか何かと間違えられたというのが上の記事なら、バズーカをつくろうとしてたら暴発したというのが David Hahn か? という感想。


上記ニュースに関しては、
http://wiliki.zukeran.org/index.cgi?%b8%c4%bf%cd%a4%c7%a4%c7%a4%ad%a4%eb%b3%cb%cd%bb%b9%e7
が冷静な気が。上記より Hahn についても
http://d.hatena.ne.jp/hujikojp/20070521/fusor
で言及されていました。


デイヴィッド・ハーン
http://d.hatena.ne.jp/korompa/20060922

うそをうそと見抜くということ

「悪魔に仕える牧師」(未読です)に収録されている「情報への問題提起」(英文)というエッセイに経緯が書かれていて、ここ読むような人は知ってるんだとは思いますが一応。


創造論者がドーキンスにインタビューをしたことがあり、フィルムとして公開されました。その中で「ゲノムの情報量を増加させると考えられる突然変異や進化プロセスの例を挙げていただけますか?」という質問に対して長時間無言のまま答えられない、というシーンがありました(上記リンクのビデオ22:15あたり)。これはYoutubeにも(使いまわしたバージョンが)アップされています。



最近アップされた別バージョン(自称未編集版)がこれ。



両者(あるいは三者)の違いを確認してほしいのですが、ドーキンスは後のほうのクリップの0:28あたりでフィルムを止めるように言っています。


エッセイにも書かれている(またドーキンス自身が掲示板で語っている)説明、さらに当時彼が知り合いに宛てた手紙(これが詳しい)によると、

  • 取材方法が技術的にあまりに稚拙でおかしいと初め思った(それまでにドーキンスは少なくとも3つの長時間テレビ番組をつくっています)
  • 例の質問をされて、こいつらは創造論者で、自分ははめられたんだということを確信した
  • しかし取材は受けると言ったし、取材者はオーストラリアからはるばる来ているし、きれてはいけないと悩んだ


これで例の沈黙となったそうです。その後テープを止めるように言って、立ち去ってほしいと慇懃に申し出たけれど、相手が涙ながらに訴えたので哀れに思って取材を続けた、と。


でフィルムには続きがあって、答えはしているんですが問題をそらしている! とビデオ製作者(完成版を含め)は主張したいらしい。ところで未編集版(Raw Footage)と言う割には途中でカットされてる部分があるんですが。


ちなみに質問の答えはエッセーにあるはずのでご確認を(というか進化論を理解しているのなら答えは簡単に出てくるはず。エッセーはこれから読む! かも)。しかしなんというかどっかの放送局もやってそうな手法だな、ということで。

ドーキンス:ヴィークルを葬る

はじめに


某所で話題の群淘汰および Sober & Wilson に関してドーキンスがコメントしているのを見つけたので訳しました。もう少しこなれた訳にするとは思いますがとりあえず。


なお、批判の対象となっている論文は
http://www.bbsonline.org/documents/a/00/00/04/60/bbs00000460-00/bbs.wilson.html
より読むことができます。

リチャード・ドーキンス「ヴィークルを葬る」Burying the Vehicle by Richard Dawkins


http://www.simonyi.ox.ac.uk/dawkins/WorldOfDawkins-archive/Dawkins/Work/Articles/1994burying_the_vehicle.shtml

Published in Behavioral and Brain Sciences, Vol.17, No.4, pp.616-617 (1994). Remarks on an earlier article by Elliot Sober and David Sloan Wilson, who made a more extended argument in their recent book Unto Others : The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior


WilsonとSober の情熱が正真正銘だということは明らかだ。彼らのはっきりとした真摯な説明は歓迎するし、そのレトリックもついつい楽しんでしまった。彼らは熱狂的で、ほかの人間が自分たちに賛成してくれないことに戸惑っている。これは同情できる。わたしも彼らが支持している、完全にふざけた脳みそからっぽの天邪鬼だと思っている立場には戸惑わされ続けているから。わたしたちは本当に多くのことについて同意している。仲良くやっていけるほんの手前まで来ているのだ。自己複製子とヴィークル(乗り物)の区別という根本的な重要性はどちらも認めているし、遺伝子こそが自己複製子であり、生物個体や集団ではないということにも同意している。群淘汰論争はヴィークルとしての群に関する論争のはずで、ここでは答えが違ってくるということも簡単に同意できるはずだ。しかし、これほどまでに論理的に進めてこれたのに、彼らの言うヴィークルとしての群淘汰が、AlleeやEmersonたちが無批判に利他行動を説明するのに用いたタイプの群淘汰と、肯定的な類似性を持っているかのように装って、肝心な部分をぶち壊しにしてしまうのはなぜなのだろうか。WilsonとSoberはこうした群淘汰論をナイーブだとしていて、それは正しい。しかし、そこから進んでいってこのナイーブな群淘汰論を再紹介している。否定されるべきナイーブな理論を再紹介するのはやめていただきたいものである。


生物個体が評価されすぎだということにも同意がある。「延長された表現型」は、個体を支持するのではなく、個体に対する攻撃と考えられているし、このことはWisonやSoberにとって心地よく聞こえるはずである。ヴィークルという名称を考案したのはそれを称揚するためではなく葬り去るためだった。そういうわけで逆説的ながら、ヴィークルという名前はHullの名づけた相互作用子よりもいい名称になっている。相互作用子では(ごちゃごちゃした)真実に近くなりすぎているから、それを決定的に葬り去るためにはうまくはたらかないのだ。


淘汰により選ばれるのはDNA分子や、おそらくは文化遺伝単位といった自己複製子だけである。自己複製子はその表現型効果により判断される。表現型効果がヴィークル内で他の自己複製子の表現型効果とセットになっていることもあるだろう。こうしたヴィークルは生物体と認識されるものであることが多いが、必ずしもそうである必要はない。ヴィークルの定義ではないのだ。ヴィークルにこれというべきものがあったことはないのだ。ダーウィニズムは、表現型効果(相互作用子)が散漫で、多レベルにわたり、一貫性がなくてヴィークルと呼ぶに値しないような自己複製子にはたらいてもいいのだ。延長された表現型にはビーバーのダムのように無生物の加工物が含まれている。表現型効果が他の個体や種で発現するものさえ含まれうるのだ。離散的なヴィークルの存在こそそのものが説明を必要とされているが、これは性の存在が説明を必要とされているのと同じ意味だ。よい説明があることには疑いがなく、「延長された表現型」でも三つの説明を述べておいた。しかしヴィークルは本質的なものではなく、これに関しては他の説明が排除されるべきだというわけでもない。「この状況におけるヴィークルは何なのだろう」と質問する権利があると考えるべきではないのだ。


モールとラッティのようにスイレンの葉まで水上を調子を合わせて協力して移動するコオロギたちはすてきな話ではある。しかしこの二匹が淘汰のヴィークルであると主張するにはまったく役に立たない。この場合淘汰のヴィークルは存在しないのだ。この例はヴィークルの概念を葬り去るすばらしい例である。自然淘汰は環境内で繁栄する自己複製子に好意的にはたらく。自己複製子の環境には外部世界も含まれるが、もっとも重要なのは、同じ生物体や他の生物体に存在する他の自己複製子、つまり他の遺伝子、それに表現型の産物も含まれるということである。他に協力するコオロギが存在するとき、コオロギの協力遺伝子は繁栄する。この主張は真実であり啓蒙的であるが、それは雪があるときに分厚い毛皮の遺伝子が繁栄するということと同じ意味なのだ。雪と同じで、それぞれのコオロギは他方の遺伝子にとっては環境の一部なのである。


WilsonとSoberを、雪が淘汰されるものに含めてしまっていると非難することはアンフェアかもしれない。わたしの世界観からすれば、彼らのやっていることというのはそういうことなのだが。しかしWilsonとSoberに以下のことに挑戦してもらうというのはほんの少ししかアンフェアじゃないはずだ。イチジクは受粉のためイチジクバチに強制的に依存しており、イチジクバチは食料のためイチジクの胚珠に強制的に依存している。イチジクの種それぞれには固有のイチジクバチが存在し、片方が存在しなければどちらも生存できない。ここで根底にあるゲームはほぼ確実に2匹の協調するコオロギで行われたものと同型である。WilsonとSoberは{イチジク+ハチ}がヴィークルであると言わなければ矛盾することになる。たぶんそう言うだろう。しかしここで、ある種のイチジクがある特定のサルに依存して、糞により種子を移動させてもらっており、一方このサルが食料のために同じイチジクに完全に依存している、と考えてみよう。ここでは{イチジク+サル}がヴィークルになる。となるとベン図が重なってしまうという悪夢になってしまうが、これはそもそもものごとを離散的なヴィークルに詰め込もうとしたときにだけ起こる。背理法で言うなら、形態や行動が何世代にもわたり相互の軍拡競争によりかたちづくられてきた、スペシャリストの捕食者およびそれに対する単一の被捕食者について、この一対の生物たちが連結ヴィークルを構成しているのだと言ってしまうことにWilsonとSoberは危険なほど近づいてしまっていないだろうか。


自然淘汰は、自己複製子の能力が他の自己複製子やその産物を含む環境で生存するように自己複製子を選んでいる。自己複製子同士の協力が強く好まれ、ヴィークルと呼ばれるに十分なくらい団結した単位が出現することもある。しかしヴィークルが特定のレベルで出現する可能性があるからというだけでは、ヴィークルが存在すると想定する権利はどこにもないし、わたしの考えでは通常ヴィークルはほとんどのレベルにおいては存在していないという証拠がある。「この状況におけるヴィークルは何なのか」という問いは「エベレスト山の目的はなんなのか」という問いと同じ程度にしか正当ではない。そうではなくて、「この状況においてヴィークルが存在するのか、もし存在するとすればなぜなのか」と問うべきなのである。

ポール・グレアム「判断には2種類ある」

調子に乗ってまた訳しました。結構修正が多そうだ…
「人柄」という単語はあまり使いたくない。→shiroさんのコメント参照


http://www.paulgraham.com/judgement.html

ポール・グレアム「判断には2種類ある」

Two Kinds of Judgement

April 2007


人を判断する方法には2種類ある。人を正しく判断することが最終目標のこともあるけれど、判断にはもう1種類あって、これは人の正しい判断が目的じゃない。判断というのは最初の1種類しかないんだ考えてしまいやすいけれど、どっちがどっちなのかわかるようになったら、もっと幸せになれるはず。


There are two different ways people judge you. Sometimes judging you correctly is the end goal. But there's a second much more common type of judgement where it isn't. We tend to regard all judgements of us as the first type. We'd probably be happier if we realized which are and which aren't.


1種類目の判断は、人を判断することが最終目標になっているもの。これには裁判とか、学校での成績とかがある。あと競争は大抵この種類だ。こういうタイプの判断にはもちろん誤解がつきものだけれど、目標としては正しく判断することだから、抗議プロセスが用意されているのが普通だ。判断ミスがあると感じたら不公平な扱いを受けたと言って抗議できる。


The first type of judgement, the type where judging you is the end goal, include court cases, grades in classes, and most competitions. Such judgements can of course be mistaken, but because the goal is to judge you correctly, there's usually some kind of appeals process. If you feel you've been misjudged, you can protest that you've been treated unfairly.


子どもへの判断というのはほとんどがこのタイプだから、若いうちから判断というのはみんなこういうものなんだと考える癖がついてしまっている。


Nearly all the judgements made on children are of this type, so we get into the habit early in life of thinking that all judgements are.


でも実は2種類目の判断のほうがもっとたくさんあって、そこでは人を判断することはほかの目的のための手段にすぎない。大学入学者選抜とか、人材採用や投資の決定とか。それからもちろんデートのときの判断とか。こういうタイプの判断は、実は自分の中身*1とは関係ない。


But in fact there is a second much larger class of judgements where judging you is only a means to something else. These include college admissions, hiring and investment decisions, and of course the judgements made in dating. This kind of judgement is not really about you.


キミにアメリカ代表チームのメンバーを選考する権利があるとしよう。話を簡単にするために、このスポーツにはポジションがなくて、20人の選手を選ばないといけないということにしておこう。スター選手は何人かいて、チームを確実に引っぱっていけるだろうし、その他大勢はそうじゃない、ということになるだろう。判断次第で違いが生まれてくるのはボーダーラインの場合だけだ。キミが間違えて20番目にうまい選手を過小評価してしまい、彼が代表チームに残れなくなって21番目が替わりに代表に選出されることになったとしよう。それでもいいチームができたとは言える。選手たちの能力分布が普通だったら21番目は20番目よりちょっと悪いだけだ。たぶん二人の違いは測定誤差よりも小さい。


Put yourself in the position of someone selecting players for a national team. Suppose for the sake of simplicity that this is a game with no positions, and that you have to select 20 players. There will be a few stars who clearly should make the team, and many players who clearly shouldn't. The only place your judgement makes a difference is in the borderline cases. Suppose you screw up and underestimate the 20th best player, causing him not to make the team, and his place to be taken by the 21st best. You've still picked a good team. If the players have the usual distribution of ability, the 21st best player will be only slightly worse than the 20th best. Probably the difference between them will be less than the measurement error.


20番目はこの判断が間違いだと思うかもしれないけれど、キミの目的は能力測定サービスの提供じゃない。選手を選んでチームをつくることだ。で、20番目と21番目の差が測定誤差より小さいんだったら、最適なチームづくりはそれでもできている、ということになる。


The 20th best player may feel he has been misjudged. But your goal here wasn't to provide a service estimating people's ability. It was to pick a team, and if the difference between the 20th and 21st best players is less than the measurement error, you've still done that optimally.


こういうタイプの判断ミスを説明するのに「不公平」という言葉を使うことばを使うこと自体が間違った類推だ。個人の能力を正しく測ることが目的じゃなくて、それなりに最適なセットを選び出すとが目的なんだから。


It's a false analogy even to use the word unfair to describe this kind of misjudgement. It's not aimed at producing a correct estimate of any given individual, but at selecting a reasonably optimal set.


選ぶ側に力があるように見えるということが誤解を招く原因になっている。おかげで選ぶ側が裁判官のように見えてしまう。自分を判断する人が裁判官じゃなくて顧客だと考えたら、公平を期待しようとは思わなくなるだろう。読者がどぎつい表紙の儲け主義の作品を好んでいるのは不公平だ、とすばらしい本の書き手は文句を言わないでしょう。そういう時は「バカ」と言うんじゃないかな。でも「不公平」じゃない。


One thing that leads us astray here is that the selector seems to be in a position of power. That makes him seem like a judge. If you regard someone judging you as a customer instead of a judge, the expectation of fairness goes away. The author of a good novel wouldn't complain that readers were unfair for preferring a potboiler with a racy cover. Stupid, perhaps, but not unfair.


若いうちの訓練と自己中心主義が組み合わさったおかげで、自分に対する判断は全て、自分の中身だけに関係しているんだ、と思ってしまう。でも実はほとんどの場合そうじゃないんだ。これは自己中心的にならなければもっと自信がつくようになるという、まれなケースだ。判断する側にしてみれば、相手の中身を正確に判断できるかはほとんど気にしていない、ということを理解できたら――応募者集団はたいてい正規分布になるんだから、判断が最大の効果を持つまさにそうしたケースでは、正確な判断はほとんど問題にならない、ということを理解できたら――落とされたとしてもそれを自分のせいだとは思わなくなる。


Our early training and our self-centeredness combine to make us believe that every judgement of us is about us. In fact most aren't. This is a rare case where being less self-centered will make people more confident. Once you realize how little most people judging you care about judging you accurately―once you realize that because of the normal distribution of most applicant pools, it matters least to judge accurately in precisely the cases where judgement has the most effect―you won't take rejection so personally.


不思議なことに、落とされたことを自分のせいにしなければ、落とされることは少なくなってくる。判断する側が自分を正しく判断するためにがんばってくれているんだ、と考えてしまうと自分から動く必要はなくなる。でも判断というのはランダムで外在的な要因にかなり影響されるのが普通だということがわかるようになれば――判断する人が賢明で洞察力の鋭い判事じゃなくて、小説を気まぐれに買うような人に近いということがわかるようになれば――結果に影響を与えるためにやれることがあるんだ、ということがわかるようになってくる。


And curiously enough, taking rejection less personally may help you to get rejected less often. If you think someone judging you will work hard to judge you correctly, you can afford to be passive. But the more you realize that most judgements are greatly influenced by random, extraneous factors―that most people judging you are more like a fickle novel buyer than a wise and perceptive magistrate―the more you realize you can do things to influence the outcome.


この原理が当てはまるいい例が大学入学者選抜*2だ。高校生は普通大学に入学申し込みをするとき、劣等感と自己中心主義がないまぜになった、ありふれた子どもっぽさを持っている。入学事務局は何から何まで全部お見通しなんだと考えてしまうという意味での劣等感と、入学事務局は自分たちのことを十分に気にしてくれていて、申し込み書類を読み込んで自分たちがいいのか悪いのか判断してくれるはずだ、と思い込んでしまうという意味での自己中心主義。この2つが組み合わさるせいで、入学志望者は申し込みが受身になるし、落とされたら傷つく。彼らが選抜プロセスがどれだけ素早く、人間味なく行われるのかを理解したら、自分たちを売り込む努力をもっとやるようになって、結果を自分のせいにしなくなるようになるかもしれない。


One good place to apply this principle is in college applications. Most high school students applying to college do it with the usual child's mix of inferiority and self-centeredness: inferiority in that they assume that admissions committees must be all-seeing; self-centeredness in that they assume admissions committees care enough about them to dig down into their application and figure out whether they're good or not. These combine to make applicants passive in applying and hurt when they're rejected. If college applicants realized how quick and impersonal most selection processes are, they'd make more effort to sell themselves, and take the outcome less personally.

*1:コメント欄参照

*2:入試ではなく入学者選抜なのは、入学者を選考する過程が日本で言うAO入試にあたるためです。基本的に、学力テストの成績(学校での成績)、課外活動、作文、コネ?などで決定されたはずです。

MITからの合格通知

MITからの合格通知。尊大です。10年以上前のもののようですが、(内容は事実らしいけど)今でもそうなのかな。
http://www.scribd.com/doc/18475/Pompous-MIT-admissions-letter-with-AWESOME-response
より。



ジョン・モンガン様


あなたは成績優秀で、PSATのスコアも確かに高得点でした。そして今、MITから手紙を送ります。驚いているかもしれません。普通学生はみんな驚きます。


でもあなたは普通の学生とは違います。だからこそわたしはアメリカ有数の本学について真剣に考えて欲しいと思っています。


あなたの成績からうかがえる可能性はMITの候補生としてすばらしいだろうということを強く示しています。少なくともわたしはそう思いました!


エンジニアリングに興味がない? ノープロブレム。おどろくかもしれませんが、本学では40以上もの専攻分野があります。建築や脳・認知科学。経済(たぶんアメリカ最高のプログラムです)や創作文芸も。


え? もちろん退屈したくはないでしょうね。みんなそうです。ここの生活はきつくてしんどい。でも楽しくもあるんです。MITの学生は想像力豊かでクリエイティブです。教室の中でも外でも。


スポーツに興味がある? すばらしい。MITでは39種目のスポーツで代表チームがあります。これはどこの大学にも負けない数ですし、それに学内プログラムも豊富にあります。ここには誰でも参加できます。


学費が心配でしょうか。考えすぎはいけません。ここにもサプライズはありますよ。


同封した用紙を送って入学案内を手に入れて、このユニークな大学をもっとよく知ってください。今すぐにでも送ってください。


よろしくお願いします。


入学事務局長
マイケル・ベンケ


追伸


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1994年5月5日